ucoが提唱する「進化する自治」というテーマを深堀りしつつ問いかける連載。その第2回。
効率化で生まれた時間は、誰のものになるのか
スーパーで買い物をする。商品をかごに入れ、セルフレジに向かう。バーコードを読み取り、画面を操作して支払いを済ませ、商品を袋に詰める。以前は店員が担っていた仕事の一部を、今では私たち自身が行っている。
もちろん、セルフレジは便利である。レジ待ちが短くなることもあるし、店員とやり取りせずに買い物を済ませたい人もいるだろう。人手不足のなか、店舗を維持するためにも役立つ仕組みである。しかし、ここで一つ考えてみたい。
店員の仕事が減ったとき、その仕事は本当に消えたのだろうか。
実際には、仕事の一部が利用者へと移っている。飲食店でのスマートフォン注文、ホテルのセルフチェックイン、銀行のオンライン手続なども似ている。私たちは、以前なら誰かが行っていた作業を、当たり前のように自分で行うようになった。
しかも、そのことを「便利になった」と受け止めている。
便利になったことは事実である。しかし、便利になったことと、私たちの負担が減ったことは、必ずしも同じではない。
誰にとっての効率化なのか
効率化とは、少ない労力で同じ成果を得ることである。企業がセルフレジを導入すれば、レジ業務に必要な人員を減らしたり、従業員を別の仕事へ配置したりできる。一方で、利用者は商品の読み取りや決済操作を自分で行う。企業の負担が減り、利用者の待ち時間も減るのであれば、双方にとって望ましい。
しかし、企業の人件費が削減される一方、利用者の作業だけが増えたとしたらどうだろう。企業の効率化が、社会全体の効率化になったとは限らない。
ここで注目したいのは、私たちの時間である。商品の読み取りにかかる時間。複雑なアプリの操作方法を調べる時間。本人認証をやり直す時間。
一つひとつは小さな作業かもしれない。
しかし、企業の人件費は会計上の費用として計算されるのに対し、利用者が費やした時間は、通常、その企業の会計には現れない。
つまり、企業の費用を減らす仕組みが、利用者の時間を使うことで成立している場合があるということである。もちろん、利用者が自分で操作できる自由にも価値がある。問題は、効率化によって誰の負担が減り、誰の負担が増えたのかが、十分に見える形になっていないことである。
行政のデジタル化も同じしくみではないか
この問題は、企業だけではない。行政手続のデジタル化にも共通する。市役所へ行かなくても申請できる。窓口に並ばずに済む。仕事を休まなくても手続できる。
これは大きな進歩である。
しかし、申請書類を自分で調べ、必要なデータを用意し、画面に入力し、エラーが起きれば自分で解決する。そのような仕組みであれば、行政職員の作業が減ったとしても、市民の負担まで減ったとは限らない。行政の効率化を評価するとき、職員の作業時間が何時間減ったかだけでは不十分である。申請する市民の時間は減ったのか。操作に困った人は相談できたのか。途中で手続を諦める人はいなかったのか。そうしたことも確認する必要がある。実際、デジタル庁が進める「書かないワンストップ窓口」は、行政職員と住民の双方の負担軽減を目指している。
この考え方は重要である。
行政の効率化とは、行政が楽になることではない。市民が、より少ない負担で必要な公共サービスを受けられるようになることである。
そして、効率化によって行政職員に余裕が生まれるのであれば、その時間を市民への相談支援や、地域の課題を考える仕事に振り向けることもできるはずである。
単に人員を減らすことだけを成果とするのか。それとも公共サービスの質を高めることにつなげるのか。そこには、行政としての判断がある。
技術が進歩すれば、自由な時間は増えるのか?
私たちは、技術が進歩すれば仕事が楽になり、自由な時間が増えると考えてきた。洗濯機や掃除機は家事の負担を減らし、コンピューターは事務作業を効率化した。インターネットによって、何時間もかかっていた情報収集が短時間でできるようになった。
ところが、職場では別のことも起きている。資料を早く作れるようになれば、より多くの資料が求められる。メールで簡単に連絡できるようになれば、より早い返事が期待される。一時間かかっていた仕事が10分で終わるようになったとしても、残った50分が自由な時間になるとは限らない。別の仕事が追加されることもある。
もちろん、技術によって労働時間を短縮できた職場もあるだろう。現代人の忙しさを、すべて効率化のせいにすることはできない。しかし、ここには見逃せない問題がある。
生産性が向上しても、その成果が働く人の自由な時間として還元されるとは限らない。労働時間を短くするのか。賃金を増やすのか。企業の利益を増やすのか。商品やサービスの価格を下げるのか。生産性向上によって生まれた利益には、さまざまな使い道がある。そして、その配分は技術によって自動的に決まるものではない。企業の経営方針、労働条件、社会制度によって決まるのである。
AIは、私たちを暇にしてくれるのだろうか
今、この問題はAIによってさらに大きくなろうとしている。文章を作成する。資料を整理する。画像を生成する。複雑な計算を処理する。これまで人間が時間をかけていた仕事の一部を、AIが短時間で行えるようになってきた。
では、AIによって仕事が半分の時間で終わるようになったら、私たちは半分の時間で帰宅できるのだろうか。
それとも、同じ時間で倍の仕事を求められるようになるのだろうか。これは決して技術だけの問題ではない。
AIを導入することで生まれた利益を、誰が手にするのかという問題である。企業の利益が増えること自体が悪いわけではない。新たな投資や雇用につながる可能性もある。しかし、その成果が働く人や利用者へ十分に還元されなければ、技術が進歩しても生活の余裕は増えない。生産性の向上と賃金の上昇が、必ずしも同じ歩調で進まないことは、OECDの分析でも指摘されている。
だからこそ、私たちはAIの性能だけでなく、AIが生み出す成果をどう分け合うかについても考えなければならない。重要なのは、AIに何ができるかだけではない。
AIによって何を実現したいのかを、誰が決めるのかということである。
効率化の目的を、私たち自身で決める
そもそも、私たちは何のために効率化を進めているのだろう。企業の利益を増やすためだろうか。行政の人件費を減らすためだろうか。それとも、人々の生活を豊かにするためだろうか。この三つは、必ずしも対立するものではない。企業が健全に利益を上げ、行政が無駄を減らし、市民の暮らしもよくなる。
そうした社会を目指すことは十分に可能である。
ただし、効率化の成果が自然に公平に分配されるわけではない。そこには、誰が利益を得るのか、誰が負担するのかという問題が残る。例えば、行政がデジタル化を進めるとき、市民が手続に要する時間を評価項目に加えることができる。
利用者の声を聞き、手続の仕組みそのものを見直すこともできる。職場であれば、AIの導入によって生まれた余裕を、賃金や休暇、働き方の改善につなげるための話し合いができる。こうしたことは、技術の専門家だけが決める問題ではない。そこに暮らし、働き、サービスを利用する私たち自身が関わるべき問題である。
前回、この連載では、私たちは社会の「お客さん」になっていないかと問いかけた。今回の効率化の問題も、同じ構造を持っている。
提供された便利さを受け入れるだけでなく、その便利さによって何が変わり、誰が利益を得るのかを考える。そして、その仕組みを変えるための議論に関わる。それが、社会を自分たちで支える力を広げることにつながる。
効率化そのものが目的になってはならない。
私たちが本当に手に入れたいのは、ただ仕事を早く終わらせる技術ではなく、自分の時間を、自分の意思で使える暮らしではないだろうか。家族と過ごす時間。友人と話す時間。好きなことを学ぶ時間。地域の問題について考える時間。
そして、何もしないで過ごす時間。
技術が進歩した社会で、そうした時間をもっと豊かに使えるようになる。効率化の成果を、そこへつなげていく。そのためには、技術が何を変えるかを見守るだけでは足りない。
技術によって生まれた時間を、誰のために使うのか。
その決定に、私たち自身が関わっていく必要があるのである。
次回予告|第3回・10月29日
「税金を払えば、社会は誰かが守ってくれるのか」
道路、公園、福祉、教育。公共サービスは行政だけが支えるものなのか。行政の責任と、市民が社会を支える力の関係を考える。
<山口 達也>

