大阪駅前の歩道に敷き詰められた「排除アート」問題について、ぼう•けん 防災×建築計画研究所 のぼう・けんさんのリポートをベースにお届けします。
行政は公共空間を誰のために管理しているのだろうか
JR大阪駅御堂筋南口前、梅田新歩道橋の下。
毎日、膨大な数の人が行き交う大阪の玄関口で、舗装面に無数の石状の突起物が設置された。
ベンチに寝転べないよう中央に仕切りをつける。腰掛けられそうな場所に突起をつける。スケートボードができないよう凹凸をつくる。
こうした、人の特定の行動を抑制するためにつくられた空間は、一般に「排除アート」「排除ベンチ」「敵対的建築(Hostile Architecture)」などと呼ばれている。
(産経新聞では「いけず石」という表記もある)
今回の大阪駅前の施工も、その一種と考えられる。しかし、私たちが問題にしたいのは、「このデザインが好きか嫌いか」ではない。
もっと根本的な問題である。
行政が管理する公共空間から人を遠ざけるために、行政自身が危険になり得るものを設置してよいのだろうか。
そして、そこを市民から指摘されたとき、
「そこに入る人が悪い」
という論理で行政が責任を回避できるのだろうか。
これは都市デザインの問題であると同時に、行政の法令遵守、説明責任、そして私たち市民と行政との関係を考える問題でもある。
「入った人の責任」で終わらせてよいのか
今回、SNS上で注目されたのが、市民と大阪市建設局野田工営所とのやり取りだった。
石状の突起物について「つまずいて転倒する危険があるのではないか」と問い合わせた市民に対し、建設局側から「立ち入る場所ではなく、入って怪我をした場合は入った側の責任になる」という趣旨の説明があったとされている。
もちろん、実際の事故における法的責任は、場所の法的位置付けや設置状況、事故の態様などによって個別に判断される。
だから、ここで「大阪市に必ず賠償責任が発生する」と断定するつもりはない。
しかし、それ以前に気になることがある。
行政が管理する場所について、市民から危険性を指摘されたとき、最初に検討すべきなのは「誰の責任になるか」なのだろうか。
本来なら、
「実際に危険はないか」
「高齢者や視覚障害者、子どもにはどう見えるか」
「混雑時や緊急時にはどうなるか」
「より安全な方法はないか」
を確認するのが、公共空間を管理する側の順序ではないだろうか。
事故が起きる前に危険を減らす。そのために行政は道路や公園、公共施設を管理しているはずである。
市民から危険を指摘されたときに、「入った人の責任」という発想が先に出てくるのであれば、問題は石の形よりも、その背後にある行政の管理思想にある。
そもそも、ここは「歩道ではない」のか
この問題をめぐってネット上では、
「そこは歩道ではない」「通行する場所ではない」「だから入る人が悪い」
という意見も見られる。
道路構造令第二条では、歩道について、
「専ら歩行者の通行の用に供するために、縁石線又は柵その他これに類する工作物により区画して設けられる道路の部分」
と定義している。
問題の場所が法令上どのような道路区域として位置付けられているのかについては、道路台帳なども含めた確認が必要であり、外観だけから「法的に歩道である」と断定することには慎重であるべきだろう。
しかし、ここで一つ重要なことがある。
仮に大阪市の説明どおり「通常、人が通行することを想定した場所ではない」としても、それで問題が消えるわけではない。
むしろ次の疑問が生まれる。
人が入ってはいけない場所なら、なぜ人が簡単に入れる形になっているのか。
入ってほしくないのに、なぜ「普通に」入れるのか
ここは、かなり重要なポイントである。
本当に立ち入りを防ぐ必要がある場所なら、方法はいくらでもある。
柵を設ける。植栽で区切る。チェーンポールを置く。段差や境界を明確にする。サインで立入禁止を表示する。
つまり、「ここから先には入らないでください」と空間そのものが人に伝える設計にすればよい。
ところが今回採用されたのは、人が物理的には入れる状態を残したまま、足元に多数の石状突起物を配置する方法だった。
これは少し奇妙である。
入ることそのものを止めるのではなく、「入ることはできる。しかし入ると歩きにくい」という空間を行政が意図的につくっているからだ。
しかも大阪駅前である。
高齢者もいる。子どももいる。外国人観光客もいる。視覚に障害のある人もいる。大きな荷物を持った人もいる。
横断歩道付近であれば、信号待ちの人が広がることもある。突発的な事故や混雑によって、人が通常想定された動線から外れることもある。
都市は、設計図どおりに人が動く場所ではない。
だからこそ公共空間には、多少の予期せぬ行動を受け止められる「余白」が必要になる。その余白に、意図的に障害物を置く。
ここに今回の問題の本質がある。
法律は「市民だけ」が守るものではない
さらに重要なのが、行政自身の法令遵守である。
移動等円滑化に関する道路の構造基準では、対象となる歩道等について、舗装を「平たんで、滑りにくく、かつ、水はけの良い仕上げ」とすることが求められている。また国家賠償法第二条は、道路などの「公の営造物」の設置または管理に瑕疵があり、それによって損害が生じた場合、国や公共団体が賠償責任を負うことを定めている。
今回の場所にこれらの規定が具体的にどう適用されるかは、道路区域や施設の位置付けなどを確認した上で判断する必要がある。
しかし、少なくとも行政には、
自ら設置するものによって新たな危険を生じさせない
という極めて基本的な管理原則があるはずだ。
私たちは普段、行政からさまざまなルールを求められている。
道路交通法を守ってください。
建築基準法を守ってください。
条例を守ってください。
申請してください。
許可を取ってください。
それ自体は社会を維持するために必要なことである。
だが、法令遵守は市民だけに求められるものではない。
行政もまた、法律によって縛られる。
むしろ公権力を持つ行政だからこそ、自らの行為がどの法令に基づき、どのような安全性の検討を経て決定されたのかを説明する責任は重い。
「行政が設置したから安全なのだろう」
ではない。
「行政が設置したものだからこそ、その根拠を市民が確認できる」
それが本来の関係ではないだろうか。
公共空間は「行政の土地」ではない
今回の問題を考えていて、もう一つ強く感じることがある。
公共空間を、行政が「管理する側の所有物」のように扱ってはいないだろうか。
道路も、公園も、駅前広場も、行政庁舎も、行政が管理している。
しかし、それは行政の私有地ではない。
私たちが税金を負担し、社会全体で維持している共有の基盤である。もちろん、公共空間で何をしても自由という意味ではない。
通行を妨害してはいけない。
他人に危険を与えてはいけない。
施設を壊してはいけない。
一定のルールは必要である。
しかし、そのルールをつくるときに問われるべきなのは、
「どうすれば人を追い出せるか」ではなく、
「異なる人たちがどうすれば安全に同じ場所を使えるか」ではないだろうか。
ここには大きな違いがある。
前者では、市民は「管理される対象」になる。
後者では、市民は「公共空間をともにつくる主体」になる。
ucoが今回の小さな石に注目する理由も、そこにある。
これは小さな「石」の問題ではない
数十センチの石状突起物の話に、そこまで大げさなことを言わなくてもいい。
そう思う人もいるかもしれない。
しかし、社会のあり方は、こうした小さな場所に意外なほど正直に現れる。
人が座るから、座れないようにする。
人が寝るから、寝られないようにする。
スケートボードをするから、滑れないようにする。
人が入るから、歩けないようにする。
問題が起きるたびに、人の行動を物理的に封じ込める。
確かに管理する側にとっては、その方が早い。
話し合う必要もない。背景を考える必要もない。運用を工夫する必要もない。
しかし、その積み重ねの先にある都市は、
「市民が使う都市」ではなく、「市民を管理する都市」
になってしまう。
公共空間からベンチが消え、座れる場所が消え、滞在できる場所が消え、最後には「用事のない人は立ち止まらないでください」という街になっていく。
それは本当に、私たちが望んでいる大阪なのだろうか。
行政を批判することは行政を敵にすることではない
今回の件で必要なのは、大阪市建設局を感情的に攻撃することではない。
確認すべきことは、もっと具体的である。
なぜこの形状を採用したのか。
誰が決定したのか。
安全性をどのように検証したのか。
バリアフリー上の検討は行ったのか。
他の方法は比較したのか。
市民から危険性を指摘された後、再検証したのか。
そして何より、
「危険ではない」と判断した根拠を、市民に説明できるのか。
行政への批判とは、本来こういうものである。
失敗を見つけて叩くことではない。
行政が持つ大きな権限を、市民の側から問い直すことである。
法律を守っているか。
合理的な判断をしているか。
税金の使い方は適切か。
安全性を検証しているか。
そして、その判断を市民に説明できるか。
その問いを市民が持ち続けることによって、行政は市民から遠く離れた存在になることを防げる。
私たちは、単なる街の「利用者」なのか
行政サービスという言葉が一般的になって久しい。
しかし、市民を行政サービスの「利用者」や「顧客」としてだけ考えると、大切なものを見失う。
私たちは大阪という街の単なる利用者ではない。
道路も公園も学校も水道も、税金を負担し、選挙で代表を選び、意見を述べながら社会全体で維持している。つまり、この街をつくっている当事者でもある。
だから、
「行政がそう決めたのだから仕方ない」で終わる必要はない。
「なぜですか」と聞いていい。
「危なくありませんか」と指摘していい。
「もっと良い方法がありませんか」と提案していい。
そして行政には、それに答える責任がある。
大阪駅前に置かれた小さな石が問いかけているのは、実はそんな当たり前の関係なのかもしれない。
この街は、誰のものなのか。
行政が市民を管理するための街なのか。
それとも、私たち自身が行政とともにつくり、支え、必要なら変えていく街なのか。たかが石。しかし、その石をどう扱うかには、行政と市民との距離が、はっきりと表れている。
<山口 達也>
ぼうけんさんって。
ぼう•けん 防災×建築計画研究所 所長
駅前再開発や公共建築設計に携わる一級建築士。建築計画に防災視点を取り入れ、都市のレジリエンスを強化。平時は経済で稼ぎ、災害時は命を守るフェーズフリー設計を提唱。持続可能な次世代防災都市モデルを提案されています。


