はじめに――大阪の未来を、100年前から考える
2025年、大阪は「大大阪」の誕生から100年を迎えた。
1925年4月1日、大阪市は第二次市域拡張を実施した。東成郡・西成郡の町村を編入し、市域は約181平方キロメートル、人口は約211万人となった。当時の東京市を上回り、日本最大の都市が誕生したのである[1]。
大阪市史編纂所は、この時代を振り返る史料集『「大大阪」の面影』を刊行している。そこには、大都市として発展する大阪のさまざまな姿が記録されている[2]。
しかし、大大阪を人口や産業の規模だけで理解すると、当時の大阪が抱えていたもう一つの姿を見落としてしまう。住宅不足、家賃の上昇、過密居住、衛生環境の問題。工業化と人口集中によって都市が成長する一方で、その都市を支える人々の生活には多くの困難が生まれていた。
こうした都市問題に向き合った人物の一人が、1923年から1935年まで大阪市長を務めた関一(せき・はじめ)である。関一といえば、御堂筋や地下鉄を整備した市長として知られている。しかし、関が取り組んだ都市政策は、道路や鉄道の整備だけではなかった。住宅、衛生、社会事業、公園など、市民生活を支える都市の仕組みも重要な政策課題であった[3]。
今回から始める「大阪のグランドデザイン」は、大阪という都市がどのようにつくられ、どのような政策が選ばれてきたのかを、史実と資料から検証する連載である。その出発点として、100年前の大阪を振り返りたい。
大大阪は、都市の成長が限界に直面した時代でもあった
明治から大正にかけて、大阪は商工業都市として急速に発展した。
工場が増え、仕事を求めて多くの人々が流入した。人口の増加に伴い、市街地は大阪市の行政区域を越えて周辺へと広がっていった。
ところが、都市の拡大に道路や上下水道、住宅などの整備が追いつかなかった。
大阪市立図書館が紹介する『新修大阪市史 史料編 第15巻』には、第一次世界大戦後の経済成長とともに無秩序な開発や都市問題が深刻化したこと、1921年には御堂筋の拡幅を含む第一次大阪都市計画事業が策定されたことが記されている[1]。
1925年の市域拡張は、こうした都市問題への対応とも関係していた。
ここで注目したいのは、都市の実態と行政区域のずれである。人々の生活は、市町村の境界で完結するわけではない。大阪市内の工場で働きながら周辺町村に住む人もいる。鉄道や道路を使って移動し、買い物や通学、通院のために行政区域を越える。市街地は連続しているのに、行政の管轄は分かれている。
その状態で、都市全体の交通や住宅をどう整備するのか。
この問題は、100年後の大阪にも通じている。
大阪市内で働き、市外に暮らす人々。大阪府内だけでなく、兵庫県や奈良県、京都府から大阪へ通勤する人々。都市の生活圏と行政区域は、現在も必ずしも一致していない。ただし、1925年の市域拡張を、現在の行政区域再編の議論にそのまま当てはめることはできない。人口構造も交通網も、行政制度も大きく異なるからである。
重要なのは、当時の大阪が、都市の実態に合わせて行政と都市計画の仕組みを変えようとしていたという事実である。
そして、その過程では編入に反対する地域もあった。
『新修大阪市史 史料編 第15巻』には、大阪市への編入に反対した依羅村の答申書も収録されている[1]。
大大阪の成立は、すべての地域が同じ将来像を共有して実現したものではなかった。都市全体の発展と、個々の地域の意思をどのように調整するのか。
この問題も、当時から存在していたのである。
関一が描いた都市は、道路だけではなかった
大大阪時代を象徴する都市施設が、御堂筋と地下鉄である。現在の御堂筋は、大阪を南北に貫く代表的な幹線道路である。しかし、その整備は単なる道路拡幅事業ではなかった。
土木学会の資料によれば、当時の淀屋橋筋は幅約6メートル、延長約1.3キロメートルの道路だった。関一は、これを幅44メートル、南北約4キロメートルの大幹線道路へと整備する構想を推進した[4]。
当時としては極めて大規模な都市改造事業である。道路を拡幅するだけでなく、地下鉄を整備し、都市の南北交通を強化することが構想された。ここで重要なのは、関一が交通施設を都市全体の将来と結びつけて考えていたことである。
都市が成長すれば、人や物の移動が増える。既存の道路だけでは対応できない。公共交通の整備も必要になる。さらに、交通網が変われば、人々が住む場所や働く場所の関係も変わる。都市交通は、単に移動を便利にするための施設ではない。都市の構造そのものを変える基盤なのである。
ただし、御堂筋の整備は容易ではなかった。土木学会の解説では、莫大な事業費、受益者負担金制度、立ち退きへの反対など、事業を進める上で多くの課題があったことが紹介されている[4]。
都市全体に利益をもたらすと考えられる事業でも、その負担は均等に生じるわけではない。土地を提供する人、立ち退きを求められる人、費用を負担する人、完成後に利益を受ける人。それぞれの立場は異なる。
御堂筋は現在、大阪を代表する都市空間となっている。しかし、その完成した姿だけを見て事業を評価するのではなく、整備の過程で誰がどのような負担を引き受けたのかも検証する必要がある。この視点は、現在の大阪で進められている大規模再開発にも共通する。
100年前の大阪では、住宅が足りなかった
大大阪時代の都市政策を考える上で、特に重要なのが住宅問題である。
大阪公立大学が公開する都市史講義資料「大大阪と関一の都市政策」では、第一次世界大戦期の人口増加によって住宅不足が深刻化し、家賃上昇や間借りなどの問題が広がったことが説明されている[3]。
工場で働くために大阪へ来ても、十分な住宅が見つからない。住宅が不足すれば家賃が上がる。家賃を負担できない人々は、狭い住宅に複数の世帯で暮らしたり、住環境の悪い場所を選ばざるを得なくなったりする。都市に仕事があることと、その都市で安心して暮らせることは、必ずしも同じではない。
ここに都市政策の根本的な問題がある。
住宅は、市場で売買され、賃貸される商品である。しかし、住宅が不足すれば、都市で働くことも、家族を持つことも、健康的に暮らすことも難しくなる。住宅は個人の財産であると同時に、都市の経済活動や市民生活を支える社会的な基盤でもある。この二つの性格を、都市政策の中でどう扱うのか。100年前の大阪は、すでにその問題に直面していた。
大阪市は住宅を自ら供給し始めた
大阪市の『大阪市営住宅ストック総合活用計画』では、市営住宅の歴史について、社会事業の一環として住宅建設が始まったことが説明されている[5]。
その後、1951年の公営住宅法制定などを経て、現在の市営住宅制度へとつながっていく。しかし、戦前の大阪市の住宅政策は、現在の公営住宅制度と同じものではなかった。
福本佳世らによる2002年の研究「大正・昭和初期の大阪市における市営住宅に関する研究」は、当時の貸付住宅と月賦住宅を対象に、住宅の供給方法や空間構成を分析している[6]。
研究によれば、貸付住宅と月賦住宅には複数の種別があり、供給対象に幅を持たせていた。さらに、住宅の配置計画では住環境の質を確保することが意識され、住宅地には共同福祉事業も導入されていた。
これは重要な指摘である。
住宅政策が、単に住戸を供給するだけのものではなかったことを示しているからである。住宅の広さや間取りだけでなく、住宅地の配置、周辺環境、共同生活を支える仕組みまで考えられていた。また、福本佳世らによる2003年の研究では、大阪市営月賦住宅の北畠住宅と杭全住宅を対象に、当初の住宅地計画と、その後の住環境の変化が分析されている[7]。
住宅を供給した後、地域がどのように変化していくのか。住宅地が時間の経過とともにどのように使われ、改修され、住民に評価されるのか。こうした長期的な視点も、住宅政策を評価する上では欠かせない。住宅政策は、住宅を建てた時点で完結するものではない。その住宅が、何十年にもわたって人々の生活を支え続けることができるかどうかまで考える必要がある。
都市の近代化は、誰の生活を改善したのか
ここまで見てきた大大阪時代の都市政策には、二つの側面がある。
一つは、道路や地下鉄を整備し、大都市としての機能を高めることである。
もう一つは、住宅不足や過密居住など、都市の成長に伴って発生する生活問題に対応することである。
この二つは本来、切り離せない。
交通網が整えば、働く場所と住む場所の関係が変わる。住宅が供給されれば、人々が住める地域が変わる。道路が整備されれば、安全性や利便性が向上する一方、従来の土地利用や暮らしが変化することもある。都市計画とは、都市の形を変えることで、人々の生活条件を変える政策でもある。
しかし、ここで一つ注意しなければならない。
都市の近代化や住環境の改善が、すべての人に同じ利益をもたらしたとは限らないことである。永橋為介による1999年の研究「1920年代の大阪市の社会事業及び住宅政策の展開にみる『都市下層』社会への統治術の検証」は、この問題を考える上で重要である[8]。
永橋は、当時の大阪市の社会事業や住宅政策を、都市の貧困層に対する行政の統治という観点から分析している。その研究では、住宅政策や社会事業が、生活環境の改善だけでなく、一定の労働規律や市民像を形成する仕組みとも関係していたことが指摘されている。これは、当時の住宅政策に生活改善の効果がなかったという意味ではない。むしろ、都市政策には生活を支える側面と、人々の暮らし方を行政が方向づける側面が併存し得るということである。
住宅を供給する。住環境を改善する。都市を安全で衛生的なものにする。それらは重要な政策目的である。しかし、誰がその住宅を利用できたのか。誰が政策の対象から外れたのか。整備によって従来の生活を失った人はいなかったのか。こうした問いを抜きにして、政策の成果を判断することはできない。完成した道路や住宅の数だけでなく、そこに暮らす人々の生活がどう変わったのか。それを調べることが、都市計画の歴史を読み解く上で必要なのである。
100年後の今の大阪に、同じ問いを投げかける
大大阪の成立から100年。大阪の都市構造は大きく変わった。
戦災復興、高度経済成長、郊外住宅地の開発、都心人口の減少と回復、産業構造の変化、そして現在の大規模再開発。都市が抱える問題も、100年前とは異なっている。当時は、急激な人口増加に伴う住宅の絶対的な不足が大きな課題だった。
現在は、住宅の総量だけでなく、価格、立地、質、管理、老朽化、世帯構成との適合など、複数の問題を考えなければならない。したがって、100年前の政策をそのまま現在に当てはめることはできない。
しかし、都市の成長と人々の生活をどう結びつけるかという問いは、今も残っている。新しいビルが建つこと。鉄道が延伸されること。観光客が増えること。企業が集積すること。それらは都市の変化を示す重要な指標である。
だが、それだけで都市政策の成果を判断できるだろうか。
そこで働く人が、無理のない住宅費で暮らせるか。子育てや介護をしながら、必要な施設へアクセスできるか。高齢になっても、住み慣れた地域で暮らし続けられるか。都市の整備によって生活が変わる人々が、その計画について十分な情報を得て、意見を反映できるか。こうした条件もまた、都市の将来を考える上で欠かせない。大大阪時代の歴史を調べることは、過去の大阪を懐かしむためではない。都市が成長する時代に、どのような問題が生まれ、それに対してどのような政策が選択されたのか。そして、その選択は誰の暮らしを改善し、誰を取り残したのか。その経緯を知ることによって、現在の大阪の都市政策を判断するための視点が得られるはずである。
大阪のグランドデザインを、もう一度考える
今回から始める連載では、大阪の都市計画と住宅政策を中心に、都市の歴史をたどりながら現在の課題を検証していく。
大阪市の24区だけでなく、周辺都市との関係も扱う。大阪市内で働き、市外に住む人々がいる。市外から大阪市内の学校や病院を利用する人々もいる。鉄道、道路、住宅市場、経済活動は行政区域を越えてつながっている。
大阪の将来を考えるには、大阪市という行政区域と、大阪都市圏という実際の生活圏の両方を見なければならない。そして、この連載では、あらかじめ理想の大阪像を決めることはしない。歴史資料を読み、行政計画を検証し、統計を分析し、研究者や実務者、地域で暮らす人々の話を聞く。
その積み重ねから、大阪の将来像を考えていきたい。
100年前、大阪は都市の急成長に直面し、道路、交通、住宅、生活環境をどう整えるかという課題に向き合った。100年後の私たちは、どのような課題に向き合っているのだろうか。そして、2050年の大阪を考えるとき、何を整備し、何を守り、何を変えるべきなのだろうか。
大阪のグランドデザインとは、未来の建物や道路を描くことだけではない。この都市で、誰が、どのように暮らせるのかを考えることでもある。
そのために、まず大阪の歴史から調査を始めたい。
参照文献・資料
大阪市の歴史・都市計画
[1]大阪市史編纂所『新修大阪市史 史料編 第15巻』
大阪市立図書館による内容紹介。1925年の第二次市域拡張、人口211万人、第一次大阪都市計画事業、編入に反対した地域の記録など。https://www.oml.city.osaka.lg.jp/page/1187.html
[2]大阪市史編纂所編『大阪市史史料 第82輯「大大阪」の面影』2015年
大正期から戦後直後にかけての「大大阪」に関する随筆・評論を収録した史料集。https://www.oml.city.osaka.lg.jp/key/post3329.html
[3]大阪公立大学・都市史研究資料「Lecture 7: Modern History III — Big-Time Osaka and the Urban Policies of Seki Hajime」
大大阪時代の都市問題、関一の政策、住宅不足、社会事業などを解説する講義資料。https://www.lit.omu.ac.jp/MSGEM/research/lecture-7-modern-history-iii
[4]土木学会「御堂筋の解説シート」
御堂筋の整備経緯、道路幅員、地下鉄との一体的整備、受益者負担金制度、立ち退き問題など。https://committees.jsce.or.jp/heritage/node/391
大阪の住宅政策
[5]大阪市『大阪市営住宅ストック総合活用計画』2016年3月
第2章「市営住宅ストックの現状と課題」。市営住宅事業の沿革と戦後の住宅政策の変遷。https://www.city.osaka.lg.jp/toshiseibi/cmsfiles/contents/0000006/6221/stock_1.pdf
[6]福本佳世・長瀬安弘・井爪康夫・穐山憲(2002)
「大正・昭和初期の大阪市における市営住宅に関する研究―貸付住宅・月賦住宅を対象として―」『都市計画論文集』第37巻、pp.889–894、日本都市計画学会。https://doi.org/10.11361/journalcpij.37.889
[7]福本佳世・穐山憲・長瀬安弘(2003)
「大正・昭和初期の大阪市営月賦住宅における住環境の変遷について―北畠・杭全住宅の住宅及び住宅地の現状調査―」『住宅総合研究財団研究年報』第29巻、pp.169–180。https://doi.org/10.20803/jusokennen.29.0_169
都市政策と社会問題
[8]永橋為介(1999)
「1920年代の大阪市の社会事業及び住宅政策の展開にみる『都市下層』社会への統治術の検証」『都市計画論文集』第34巻、pp.571–576、日本都市計画学会。https://doi.org/10.11361/journalcpij.34.571
[9]永橋為介(1998)
「1910年代の大阪にみる『浮浪者』と『貧民窟』に関する言説―社会事業及び住宅政策の展開の前史として―」『都市計画論文集』第33巻、pp.415–420、日本都市計画学会。https://doi.org/10.11361/journalcpij.33.415
※[9]は本文の背景理解のための補助的な参照文献である。本文中の個別の事実を直接裏づける資料としては使用していない。
調査上の注記
本稿は、大阪市の公開資料、都市史の解説資料、学術論文をもとに構成したものである。当時の行政文書や関一の著作の原本については、今後の調査で照合する。また、本稿にはucoによる独自インタビューは含まれていない。
歴史的事実と研究者による解釈、そこから導かれるucoの問題提起を区別しながら、今後の連載を進める。
次回予告
第2話「関一は、大阪をどのような都市にしようとしたのか」御堂筋、地下鉄、住宅政策、社会事業を手がかりに、関一の都市構想を当時の政策資料から検証する。
<山口 達也>

