「住民は、いつ政治から降りるのか」
ucoでは主に取材を中心として記事をお届けしていますが、これから4回に渡って、「政治離れ」の本当の理由を考え、「市民が参加したくなる社会とはなにか」という問いをひとつの視点として論考をまとめるその第2回。
人は無力だから諦めるのではない。
「どうせ変わらない。」
この言葉を聞いたことがない人はいないだろう。政治の話になると、必ずと言っていいほど誰かが口にする。選挙に行っても変わらない。政治家は誰がなっても同じだ。意見を書いても読まれていない。そんな声である。
しかし私は、この言葉を聞くたびに思う。人は最初から「どうせ変わらない」と考えて生まれてくるわけではない。では、この諦めはどこで生まれるのだろうか。
心理学には「学習性無力感(Learned Helplessness)」という概念がある。
1960年代、アメリカの心理学者マーティン・セリグマンらの研究で提唱された考え方である。逃れられない失敗や、自分では結果を変えられない経験を繰り返すと、人は次第に「努力しても無駄だ」と学習してしまう。
やがて、変えられる状況であっても挑戦しなくなる。
この現象は教育や職場だけでなく、社会参加にも当てはまると考えられている。もちろん、市民参加をすべて心理学だけで説明することはできない。
しかし、「参加しても結果が変わらない」という経験が人の行動を変えるという点では、大きな示唆を与えている。
政治への学習性無力感
政治学にも、これに近い概念がある。
「政治的有効性感覚(Political Efficacy)」である。
簡単に言えば、「自分の参加が政治に影響を与えられると思える感覚」のことだ。この感覚が高い人ほど投票し、地域活動にも参加しやすい。逆に、この感覚が低い人ほど政治から距離を置く傾向があることが、多くの研究で示されている。つまり、人を動かすのは政治への知識だけではない。「自分が参加する意味がある」と思えるかどうかなのである。
では、日本では、その感覚はどこで失われるのだろうか。
選挙で投票しても、自分が望む結果にならない。行政の説明会に参加しても、結論はすでに決まっているように感じる。パブリックコメントを書いても、「貴重なご意見として承りました」という定型文しか返ってこない。
自治会で活動しても、新しい担い手は現れず、同じ人ばかりが役員を続ける。もちろん、それぞれには事情がある。行政にも手続きがあり、民主主義では多数決という原則もある。だから、自分の意見がそのまま採用されるとは限らない。
しかし、市民にとって重要なのは、「採用されたか」だけではない。
「自分の声がきちんと届き、検討された」と実感できるかどうかである。その違いは大きい。
失っていく参加した経験
考えてみれば、私たちは子どもの頃から「参加する経験」を積んできた。
学級会で発言する。
部活動で話し合う。
地域の行事を手伝う。
こうした経験は、「自分も社会の一員である」という感覚を育てる。ところが大人になると、その感覚を育てる場は急激に減っていく。政治への参加は四年に一度の選挙だけ。地域活動に参加しようとしても、何をすればよいのか分からない。行政との接点は、手続きや申請のときくらいである。社会を動かす側ではなく、サービスを受ける側として行政と接する機会が増える。
その結果、「参加する市民」ではなく、「利用する住民」という意識が強くなっていく。
ここで誤解してはいけないことがある。
これは行政だけの責任ではない。政治家だけの責任でもない。自治会だけの責任でもない。私たち自身も、「どうせ変わらない」と口にすることで、次の世代へ同じ諦めを伝えてしまっている。だからこそ、この問題は誰かを責める話ではない。
社会全体が、市民の「参加する力」を少しずつ失わせる構造になっていないかを考えることが重要なのである。
私は、「どうせ変わらない」という言葉は、一人ひとりの性格ではなく、社会が映し出した鏡だと思っている。
もしそうであるなら、その鏡を変える方法もあるはずだ。
参加したことで、地域が少し変わった。
自分の意見が制度に反映された。
そんな小さな成功体験を積み重ねられる社会であれば、人は再び参加しようと思えるかもしれない。では、そのような制度は実際に存在するのだろうか。
次回は、日本や海外の事例を見ながら、「参加したくなる民主主義」の条件について考えてみたい。
<山口 達也>

