市民の財産権、教育自治を奪う行政の裏切り-9
高校移管はいつから既定路線になったのか
大阪市立高校の大阪府への移管は、突然決まったものではない。
2010年代以降、大阪府と大阪市は「府市一体化」の方針のもとで様々な制度統合を進めてきた。その中で高校行政についても、大阪府へ一元化する方向が検討されていた。
ただし、この経緯を振り返るときに忘れてはならないことがある。
もともと市立高校の府移管は、大阪市を廃止して特別区へ再編する「大阪都構想」と深く結びついた政策として議論されてきたという点である。2015年の住民投票で都構想は否決された。さらに2020年の住民投票でも再び否決された。本来であれば、都構想を前提として構想されていた政策についても、改めてその必要性が検証されるべきだったという見方も成り立つ。しかし高校移管の方針は維持され、2022年4月、移管対象となった高校は大阪府へ移管された。
ここで改めて考えたい。
市民が感じる違和感は、高校移管への賛否そのものに向けられているのだろうか。
むしろ違和感が向けられているのは、その先にある別の問題かもしれない。
高校移管という政策目的が議論されていたことと、その実現のために約1400億円の財産を無償で譲渡することは、本当に同じなのだろうか。
これは高校移管に賛成か反対かという問題ではない。学校の運営主体を変更することと、その学校の土地や建物をどのような条件で移転するかということは、本来別の問題として考えることもできる。ところが実際には、「高校移管」という大きな政策目的のもとで、財産移転の問題も一体のものとして扱われていった。もちろん、それ自体が直ちに誤りだと言いたいわけではない。だが、ここに市民が感じる違和感の出発点がある。
なぜなら、多くの市民にとって見えているのは、「高校移管」という政策だけではないからだ。その結果として、移管対象となった高校の校地や校舎、実習施設や体育館、そして約1400億円にのぼる公有財産が大阪府へ移転した。高校移管という政策目的が共有されていたとしても、財産無償譲渡まで当然に決まっていたことになるのだろうか。そして、その問いの先にはもう一つの問いがある。
議会は何のために存在するのか。
議会は政策を追認するために存在するのか
前回の記事では、立命館大学の駒林良則教授の意見書をもとに、「議会は本当に1400億円超の財産無償譲渡を議決したと言えるのか」という問いを検討した。
そこで問題となったのは、高校移管の是非そのものではなかった。
問われていたのは、高校移管という政策目的を議論することと、1400億円超の公有財産を無償で譲渡することを承認することは、本当に同じと言えるのかという点だった。
駒林教授は意見書の中で、議会議決の有無は形式ではなく、実際に何が審議されたのかという「審議の実態」によって判断されるべきだと指摘している。
そして、その観点から見るならば、移管対象となった各高校の財産について、個別の検討や審査が十分に行われたとは言い難いのではないか、という問題提起を行った。
しかし、ここで改めて考えてみたい。
なぜ地方自治法は、重要な財産処分について議会議決を求めているのだろうか。
もし議会の役割が、行政が決定した政策を追認することだけであるならば、こうした制度は必要ないはずである。
議会には本来、行政の提案を点検し、必要に応じて修正し、住民に代わって判断する役割が与えられている。だからこそ、公有財産の処分についても、首長や行政部局だけではなく、議会の判断が求められているのである。
ところが今回の高校財産無償譲渡事件では、市民の違和感は消えていない。
高校移管という政策目的があったとしても、そのことだけで1400億円超の財産無償譲渡まで承認されたと考えてよいのだろうか。もし議会が住民に代わって判断する場であるならば、なぜこうした違和感が残るのだろうか。
行政内部では何が議論されていたのか
高校財産無償譲渡事件について考えるとき、市民が抱く違和感の一つに、「こうした論点は誰も気づかなかったのだろうか」というものがある。
しかし公開された資料を見ると、実際には行政内部でも法的な論点は認識されていたことがうかがえる。高校移管の検討が進む中で、大阪市内部では、財産の取扱いや議会議決の要否について確認や照会が行われていた。そこでは、単に高校移管をどう進めるかだけではなく、財産処分に関する法的な整理も検討されていたことが読み取れる。
もちろん、行政内部で議論されたこと自体が問題だと言いたいわけではない。むしろ逆である。
1400億円を超える公有財産の移転であれば、法的な論点が検討されるのは当然のことだろう。重要なのは、そうした論点が存在していたという事実である。つまり、
今回の問題は、誰も気づかなかったから起きたという話ではない。
論点は存在していた。
法的な検討も行われていた。
それでもなお、市民の違和感は解消されていないのである。なぜだろうか。
実際に裁判で提出された行政文書を見ると、財産の取扱いや議会議決との関係について法的な照会や検討が行われていたことが確認できる。
また、高校移管という政策目的だけではなく、財産の取扱いについて法的整理が必要であることも認識されていたことがうかがえる。
市民が感じる違和感は、法的な論点が存在しなかったことから生まれているのではない。むしろ、論点が存在していたにもかかわらず、その後どのように扱われたのかが見えにくいことから生まれているのではないだろうか。
もしそうだとすれば、問題は高校移管という政策そのものだけではない。行政や議会が、こうした論点をどのように共有し、どのように判断したのかという過程にある。
そしてその先で、もう一つの問いが浮かび上がる。
なぜ誰も止められなかったのだろうか。
なぜ誰も止められなかったのか
ここまで見てきたように、高校移管は長い時間をかけて進められてきた政策だった。また行政内部では、財産の取扱いや議会議決との関係について法的な検討も行われていた。さらに市会では条例改正案が審議され、採決も行われた。
そう考えると、市民が感じる違和感は別のところにある。
なぜ誰も止められなかったのだろうか。
本訴訟では、原告団が大阪市会の各会派に対して、高校移管と財産無償譲渡に関する認識を確認するアンケートを要請し、その結果を整理した資料が証拠として提出されている。その結果を見ると、採決に関わった議員の認識は必ずしも一致していなかった。
以前、ucoでは、当時の市会議員に対し、高校移管と財産無償譲渡に関する認識について行われたアンケート結果についてレポートした。
▼市民の財産権、教育自治を奪う行政の裏切り-4
高校移管について議決したという認識。
財産無償譲渡についても議決したという認識。
あるいは両者を区別して認識している回答。
そこには、同じ議案をめぐって複数の受け止め方が存在していた。もちろん、議員が異なる認識を持っていたこと自体を問題にしたいわけではない。議会には多様な意見が存在するのが当然だからである。
しかし、もし採決に参加した議員の間で、何を議決したのかについて認識が分かれていたとすれば、市民は何を基準に議会の判断を理解すればよいのだろうか。
問題は、特定の議員の判断ではない。むしろ問われているのは、自治体が本来備えているはずの自己統制の仕組みである。
行政。
議会。
教育委員会。
法務部門。
監査。
それぞれが異なる役割を持ちながら、政策を点検し、必要に応じて修正する仕組みとして存在している。しかし高校財産無償譲渡事件では、その全体像が市民から見えにくい。だから違和感が残るのである。
議会が存在した。
行政も存在した。
法的な検討も行われていた。
それでもなお、約1400億円の財産移転について、十分に議論されたという実感を持てない。
もしそうだとすれば、市民が抱いているのは、特定の政策への不満だけではない。
自治体が自らを点検し、統制する仕組みが、本当に機能していたのかという疑問である。
問題は議員個人ではない。むしろ議会全体として、何を議決したのかが共有されていたのかという問題である。
議員アンケートから見えてくるのは、何を議決したのかという認識が必ずしも一致していなかったという事実である。
しかし、ここでさらに別の問いが残る。
裁判所は、そのような状況を踏まえたうえで、議会の意思は示されていたと判断した。本当にそれで議決したことになるのだろうか。
1400億円超の財産無償譲渡は、なぜ止まらなかったのか
ここまで見てきたように、高校移管は長い時間をかけて進められてきた政策だった。
行政内部では法的な論点も認識されていた。
市会では条例改正案が審議され、採決も行われた。
そして裁判所は、その議決によって財産無償譲渡についても議会の意思は示されていたと判断した。
しかし、それでもなお市民の違和感は消えていない。
なぜだろうか。
原告団が実施した議員アンケートからは、何を議決したのかについての認識が必ずしも一致していなかったことがうかがえる。もちろん、それだけで議決が無効になるわけではない。また、議員の認識が異なること自体を問題にしたいわけでもない。
しかし、ここで一つの問いは残る。
本当にそれで議決したことになるのだろうか。
これは裁判所の判断を批判するための問いではない。
むしろ、地方自治の仕組みそのものに向けられた問いである。
議会は何のために存在するのか。
行政は誰によって統制されるのか。
そして、公有財産の処分をめぐる重要な判断は、どのような過程を経て市民の意思として確認されるのか。
本来、自治体には様ざまな統制の仕組みが存在している。
議会。
教育委員会。
法務部門。
監査委員。
そして司法。
それぞれが異なる役割を持ちながら、行政を点検し、必要に応じて修正する仕組みとして設けられている。ところが高校財産無償譲渡事件では、そうした仕組みがどのように機能したのかが、市民には見えにくい。だから違和感が残るのである。
市民が感じる違和感は、高校移管の是非だけから生まれているのではない。
本来、行政を点検し修正するための仕組みがあるはずなのに、その姿が見えにくくなっていることへの違和感なのかもしれない。
高校財産無償譲渡事件が私たちに残している問いは、「高校移管は正しかったのか」だけではない。
自治体は自らを統制できるのか。
そして、市民はその過程をどのように確認できるのか。
その問いかけは、この事件が終わった後も残り続けるだろう。
高校財産無償譲渡 損害賠償請求訴訟第一審が判決の予定
高校財産無償譲渡事件の損害賠償請求訴訟の第一審の判決が次回期日で行われる予定。
次回期日
大阪地方裁判所 第806号法廷
2026年7月16日(木曜日) 13時10分開廷
関心のある方は、ぜひ傍聴ください。
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