UCOでは、NEXT OSAKAを妄想するベースとして、大阪市の辿ってきた道のりを再検証する企画を進めています。その一つが大阪市を形作ってきた歴史を、その土地の成り立ちと経済、文化など様々な要素を持った「区」から見つめ直そうという試みです。 はじめにお話したとおり、西区は「江戸時代の大坂」と「明治以後の大阪」の架け橋の役目を担いました。明治12年生まれの最初の4区のうち、いま現在残っているのは、西区と北区の二つだけです。そういう意味で、西区は街のあちこちに新しい大阪と古い大阪の入り混じったモザイクみたいな景色が見られるわけです。新旧大阪の歴史模様であふれています。そんな西区ならではの風景をいくつか見ていきたいと思います。
第1回「【1】明治の4区は江戸時代の大坂三郷プラスワン」
第2回「【2】大正~昭和は人口爆発、増区・分区の4段跳び時代。」
第3回「【3】平成の減区・合区が時代のターニングポイント。」
第4回「【1】「江戸時代の大坂」と「明治以後の大阪」の架け橋になった巨大区」
堀川と橋、水都の原風景
最初に挙げたいのが堀川と橋。水都の原風景と呼んでみたいような風景です。 江戸時代の西区のエリアというのは、堀川が最も濃密に発達した地域でした。江戸時代の図を見ると、水色が堀川なんですが、一番密度が濃いですね、西区エリアが。
近世の西区エリアは、江戸堀川、京町堀川、阿波堀川、立売堀川、薩摩堀川などの堀川開通とともに開けていきました。堀川とは人工河川の呼び名です。かつては物資流通のための水運が経済を動かし、大阪では市中を東西に貫く淀川とその支流が水運の要路で、さらに人工河川の堀川が網の目に通じて、街を活気づけていく原動力になりました。最も恩恵を受けたのが西区エリアです。 橋もたくさん架かりました。 新撰大阪市中細見全図を見ると、江戸時代の堀川網に多くの橋が記されています。西区エリアの橋の数は中心街の船場にまさり、水都大阪の原風景が、このエリアにあったのを示しています。
大阪の商業発展を担っていたエリアであるので、橋がたくさん架けられています。この掘られた人工河川の中でもたくさんの橋が架けられていて、八百八橋という大阪を例える水都の風景というのは西側にありました。 蔵屋敷といえば中之島が有名ですけれども、堀川沿いに蔵屋敷が建ちました。諸国の名産が集まり、水運を生かして雑喉場魚市ができ三代市場に数えられました。 阿波徳島だと藍とか、土佐だと鰹とか、阿波座、鰹座という地名が今でも使われています。江戸堀川、京町堀川、立売堀川、薩摩堀川は、川の字が取れて、江戸堀、京町堀、立売堀、薩摩堀という町名、地名として残っていくわけです。 商人の活躍の場ができ、豊臣時代にできた船場の西側の繁華な地という意味で、西船場とも呼ばれるようになりました。江戸堀、京町堀、立売堀は町名として今も西区にあり、阿波の藍、土佐の鰹など各地の名産にちなんだ阿波座、鰹坐の地名も残っています。 西区の中には、土佐稲荷というのがあります。土佐藩の大坂蔵屋敷の鎮守だった土佐稲荷は、土佐出身で三菱財閥の創業者、岩崎弥太郎ともゆかりが深く、今も三菱グループの守護神で夜桜の名所として知られています。江戸時代から桜の名所で、いまでも桜がきれいに咲く、そういう場所ですね。
次に西区エリアらしいというところで、遊興の地、歓楽の地という意味合いでの歴史が西区にはあります。 明治2年(1869)、松島遊廓ができました。新撰大阪市中細見全図を見ると、川口居留地と江之子島大阪府庁の間を取り持つ位置にあります。松島全体が遊郭になっています。当時の外務局が大阪府に示した文書によると、松島遊廓は居留地対策として設けられたのがわかります。異文化との接触による風紀の乱れを警戒しての措置で、これも明治の文明開化の一面です。
遊廓といえば、江戸時代の西区エリアには、市中唯一の幕府公認の遊廓が新町にありました。「新町遊郭」。現在、新町交差点、あるいは新町公園という地名となって残っています。江戸時代の地図bを広げてみます。新町は大坂城下町から見ると、商業地の船場とは西横堀川を隔てた市街のはずれであることから遊興地に選ばれたのです。 町なかで働いた人たちが息抜きをする場所というのが、町の真ん中にあると困るわけで、町はずれにできます。 江戸時代以来、新しいものができて発展していく途上のエネルギーがこの場所にはあって、その続きで明治になって居留地ができ、松島遊郭ができ、大阪府庁がここに移動してくる。街のエネルギーは、一貫して西へ西へと流れてきたわけです。 先ほど西区エリアの堀川網が水都大阪の顔になり、賑わいにつながったと言いましたが、江戸堀川、京町堀川、阿波堀川、薩摩堀川が次々と開通してまもない寛永7年(1630)頃に新町遊廓は生まれ、その後大きくなって、江戸の吉原、京の島原と並んで三大遊廓に数えられるようになります。西区エリアの北部は堀川網が発達して商業地の賑わいをみせ、南部は遊興地の性格を帯びていきます。 西区エリアで、あとの方で開発されていった江戸時代の場所が堀江です。堀江もまた新開地として出来上がっていきました。新町のさらに南に広がる地域は、元禄11年(1698)の堀江川の開通で市街地化がスタート。 いま現在はありませんが、堀江の中にある公園に堀江川跡という碑が残っています。川ができるとそこに街並みが整っていく。 水運がまず先にあって、そこに物が流れ込み、人が移り住む。 賑わいづくりのために行われた勧進相撲が、定例の大坂相撲開催に発展し、現在の大相撲興業のルーツになりました。南堀江公園には勧進相撲発祥の地碑、鰹座橋の近くには大阪木材市売市場発祥の地碑があります。
大阪メトロ阿波座駅近くの阿波堀川跡碑、堀江公園に建つ堀江川跡碑は、埋め立てられた堀川の名残りです。 新しいものと古いものが混じり合いながら残っていき、その跡地が西区エリアの中を歩いていくと、あちこちでぶつかるという、新旧大阪のモザイクという風景が見られます。
堀江に見る西区の今昔
堀江は近年、若者に人気の店が集まる話題のスポットになりました。活性化の中心になったのは、かつて家具の街と呼ばれた立花通りの若手店主さんたちです。その前は、堀江というと立花通り、家具の町というのが有名で、家具屋さんが、通りに並んでいました。 家具屋さんが繁盛していた時代です。その大阪の中心地が立花通りです。 堀江が家具の街になった由来をたどると、この西区エリアは材木の市が発達していた場所です。材木の市が発達したのは、堀川の網の目の水運が発達していたからです。かつ海に近いです。各地から運んできた材木を大きな安治川や木津川を上がっていったところで最初に出会うのがこの西区エリアです。 立売堀という地名は材木売り場の一番の市があったことの名残だといわれています。 堀江が江戸時代以来の材木市流通の拠点で、立売堀などに大きな材木市があった歴史に行き着きます。 西区の中に材木市発祥の地碑が残っていたり、堀江に材木市の流れで家具屋さんが集まったというのも、また自然の流れで、その流れが昭和、平成まで続いていました。近年立花通りはオレンジストリートの呼び名で生まれ変わりました。橘の花がオレンジ色なのでオレンジストリートという名前になりました。若手の店主さんたちが集まって新しい時代の堀江を作ろうというので、若者が集まるような店も受け入れて様変わりしました。もちろん中には家具の店もいまも営業をしています。その一方で若者向けのファッションの店とか、レストランとかが立ち並んで、人気のあるカフェなどもできて話題を集めていたわけです。
水都の今
江戸堀川、京町堀川、阿波堀川、立売堀川、薩摩堀川も埋め立てられて、今はありません。船から車に交通の主役が移り、街角の眺めも変わりました。そんな中で、八百八橋という名前で呼ばれた水都大阪の顔だった西区らしい風景を今味わうとすれば川口から中之島西端を臨むのが一番でしょう。川口のあたりは、中之島の西の端が目の前です。この辺りはいま現在、大阪の橋の密集地帯と言っていいほど、いくつもの橋が重なりあい交差する眺めに都市的な美を感じます。 この風景を昭和初期に発見して、讃えたのはジャーナリストの北尾鐐之助です。その著書『近代大阪』は、戦前の大阪の風景を物語っている貴重な資料だということで、近年復刻されました。その本の中で、川口あたりの風景を非常に絶賛をして、新しい水都の風景はここにあると。昭和橋という糖度新しく架かった橋を現在の明鏡であるという風に讃えて、文章に残しています。 以前川口を歩いた時に、記載の昭和橋をはじめ川口の風景を賛美する文章に敬意を表して、写真を撮りました。今日の話の最後にご覧ください。
第2回 番外編 府と区都市の関係について再考
明治期の西区の番外編。当時の大阪府と区、大阪市の関係についてご紹介しています。こちらも併せてごらんください。
■参考資料
地図 明治14年(1881) 新撰大阪市中細見全図
地図 弘化2年(1845) 弘化改正大坂細見全図
『古地図でたどる大阪24区の履歴書』
『続・大阪古地図むかし案内』
『古地図でたどる大阪ザ・ベスト10』
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本渡章 Hondo Akira
1952年生まれ。作家。
古地図昔案内シリーズなど著書多数。
講演、まち歩きツアー、古地図サロンなどの活動も行っている。