古代~中世~近代 旭区の彩りゆたかな営みの足跡を訪ねる

京街道案内板
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 区150年。現在の大阪市は24の行政区で構成されている。大阪の近代は、江戸から明治に代わって間もなくの1879(明治12)年に4つの区の誕生をもってはじまるが、この時点で大阪市はまだない。その後、区を統括する自治体として大阪市がはじまり、近代化、工業化共に人口増大と市域拡大を重ねて、新たな区が誕生していき、現在の大阪市をかたちづくってきた。

 区の成り立ちは一通りではなく、時代や発展のしかたによりさまざまな個性を持ち、街並みをかたちづくる景観も雰囲気も異なり、それぞれの風情を持っている。現在のかたちになったのには、それぞれの歴史と理由がある。しかし、今後時代が進んでいくとき、大阪のまちは現在の形を変えざるを得ないのだろうと思う。少子化、高齢化が進み、人口減少も進んでいったとき、コンパクト化や合区なども政策の話題として上がってくることもあるのではないか。

 新たな区ができていく過程で、その区の性格やの町のあり方はかたちづくられていき、その街に人々は息づいている。そうした特性や個性をもった区の集合体でもある大阪市には、どのような未来が描けるだろうか。
目次

京へ、野崎へ、大坂と東をつなぐ交差点

旧街道の位置
出典:「旭の今昔」旭区地域史<大阪市旭区役所 2012(平成24)年3月発行>
 大阪の北東にあり北は東淀川区、南は城東区と鶴見区、東には守口市と接する旭区は、水路と街道の結節点でもあり古来より多くの人が行き交った。南北には京街道が延び、東には野崎街道が野崎観音へと続いていた。旭区にはこの京街道と野崎街道が交差する箇所があり、現在の千林商店街に旧街道の交差点がある。また北側を流れる淀川を遡れば、淀、伏見へとつながり、東へは「井路」と呼ばれる水路が連なり、住道浜、観音浜(いずれも現在の大東市)まで舟で行くこともできた。
 明治時代に入り、4つの区による区政が始まり、1889(明治22)年に市制・町村制の導入により大阪市が誕生。町村制にあわせ、当時南島村、森小路村、今市村、千林村の4村が合併し、現在の今市、千林、森小路を含む地域一帯が古市村とされた。ちなみに「古市」の名は、平安中期に編纂された辞書「和名類聚抄」にこの地域を古市郷と呼ばれていたことに由来している。現在旭区内に「古市」という町名はなくなっているが、小学校などの施設や団体名として残っている。
地図左 古市村成立以前[江戸期~明治22 年(1889)]
地図右 古市村成立以後[明治22 年(1889) ~大正14 年(1925)]
出典:「旭の今昔」旭区地域史<大阪市旭区役所 2012(平成24)年3月発行>

鉄道開通とともに商店街が生まれ、商業地へと発展

 1910(明治43)年4月、京阪電車が開業。京街道に沿って敷かれた路線、天満橋~五條間が開通し、比較的多くの乗客が見込めた地域に合わせ「森小路停留所」が現在の千林商店街付近に設置された(現在の京阪千林駅近く)。開通とともに人の乗り降りの増加に伴い、駅周辺に生活用品などを扱う商店が徐々に増えていき、1920(大正9)年には公設市場が開設されるようになった。市政発足後、「大阪港第一次修築工事」や工業の発達により人口増加なと市域拡大を続ける大阪市は、1925(大正14)年に第二次市域拡張を実施。この時、地域一帯は「東成区」として大阪市に編入された。市域拡大とともに大阪市では都市計画が進められ、北側に国道1号線が整備され周辺の道路整備や住宅地も開発されていった。こうした時代背景のもと、千林商店街が形成されていき、新たな居住区と商業地域として発展していくことになった。
昭和13年頃の千林商店街
出典:「旭の今昔」旭区地域史<大阪市旭区役所 2012(平成24)年3月発行>

旧京街道沿いに広がる旭区歴史の足跡

木犀の陣屋跡に建つ案内板
木犀(もくせい)の陣屋跡の案内板
朝日地蔵尊
 昭和初期に一大商業地として発達していったこの地域は、1932(昭和7)年東成区から分立し旭区として誕生した。当時の人口は123,449 人。現在の45,682世帯・88,886人(2022年12月1日現在推計)と比べてみてもかなりの人口流入が進んでいたと考えられる。旭区の由来は、「日の出ずる東部」を表わしたという。勢いがきわめて盛んなことを指す「旭日昇天」のごとく、まさに当時の大阪の隆盛を表わしている。旭区での工業は、1897(明治30)年に現在の今市1丁目で奥村織布工場が開業したころに始まるとされている。また、この場所の西側京街道沿いには、木犀(もくせい)の陣屋跡の案内板がある。それによると、「古市村大字森小路字森の淺田邸の庭園に、みごとな木犀が三本あり、花の季節には蒲生や関目まで香りを漂わせ、それを愛でた十四代将軍徳川家茂が淺田家に宿泊、多くの大名も守口宿を淺田家に替え宿泊した」と伝わっている。木犀の陣屋跡を少し南に下ったところには「朝日地蔵尊」がある。このお地蔵さんは鼻が欠けている。江戸から明治にかけこのあたりは水路が通っており、曲がり角にこの地蔵尊があったためか、地蔵の鼻のあたりに棹をさして方向転換をしたからと言われている。
 現存する昭和初期の長屋として「千林の長屋」がある。現在は5軒だけとなっているが以前は9軒長屋として知られていた。1937(昭和12)年に建てられた2階建て長屋。玄関と台所が通りに面しており、台所の屋根が入母屋式となっている。大正後期から昭和初期にかけ、周辺には多くの長屋が建てられたとされ、現存する建物としては、地域と時代を象徴する文化的景観として価値があるといわれている。
明治期を支えた舟運の水路跡や今も現存する昭和初期の長屋などは、当時を思い起こさせるに十分である。
千林の長屋
千林の長屋

大阪大空襲と戦後の復興

1945(昭和20)年6月7日の第3次大阪大空襲では、大阪市内で約3000人の市民が命を落とした。旭区も大きな被害を受け、区内には数か所の慰霊碑や追悼の地蔵尊が点在している。区の北部に位置する城北公園には、周辺に落とされた焼夷弾から逃れた住人や工場で働く女学生など多くが避難していたが、そこをめがけて戦闘機による機銃掃射が行われた。園内にも爆弾が落とされ、1000人以上が亡くなり、遺体で埋め尽くされたという。現在公園の北川の堤防に「千人塚」と呼ばれる石碑と社がある。石碑に記された千人塚由来記によれば、「身元不詳の千数百の遺体を此処に集め、疎開家屋の廃材(異体字)を以って荼毘に付し遺骨はこの場に葬られた」とある。この空襲を免れた方がこのことが世に忘れ去られんことを憂いて、1980(昭和55)年に建立された。
延命地蔵尊
 千林商店街の南側には地元町会の有志が建立した「延命地蔵尊」がある。同じ第3次大阪大空襲時、この地蔵尊近くに1トン爆弾が落とされ、多くの人が犠牲となった。その供養として、1950(昭和30)年ごろに地元町会有志により祀られた。
大阪市内では現在も当時の不発弾が発見され、その処理が行われている。旭区でも1995(平成7)年6月、高殿で送電線の工事中に地下2.1mのところで爆弾が見つかった。大阪大空襲時にアメリカ軍爆撃機B29が投下した1トン爆弾の不発弾と推定され、弾頭と弾底に起爆装置が付いた状態だった。
 戦後、戦災を逃れた千林商店街を中心に早くから商業活動は再開された。国道1号線、旧京街道へと連なる商店街として、森小路商店街、千林商店街、今市商店街がそれぞれ連携、発展していく。戦後の娯楽の中心となった映画館が駅前や商店街の中に建てられ、様々な商店や飲食店などが立ち並び、商業地・住宅地として高度経済成長時代へと進んでいった。千林周辺には、一時8館もの映画館があったという。
 戦後、戦災を逃れた千林商店街を中心に早くから商業活動は再開された。国道1号線、旧京街道へと連なる商店街として、森小路商店街、千林商店街、今市商店街がそれぞれ連携、発展していく。戦後の娯楽の中心となった映画館が駅前や商店街の中に建てられ、様々な商店や飲食店などが立ち並び、商業地・住宅地として高度経済成長時代へと進んでいった。千林周辺には、一時8館もの映画館があったという。
 1957(昭和32)年、千林商店街に「主婦の店ダイエー」の第1号店(現在のオーエスドラッグ京阪千林店位置)がオープンする。いわゆるスーパーマーケット時代の幕開けである。1963(昭和39)年には、千林の「赤のれん(岡本商店)」他3社からなるニチイ(現マイカル)が設立され、千林商店街の一角で第1号店を開いた。こうした商業施設とともに、商業地としての新たな歩みが始まった。

uco 区150年講座「彩りゆたかな営みの足跡を訪ねる旭区さんぽ」

ucoでは、古来よりの文化と人々くらしを彩る旭区を古地図の研究者で作家の本渡章さんと散策します。
  • 案内・本渡章さん(作家・古地図研究者)
  • 2024年10月20日(日) 10:30~13:00
  • 参加費 3,000円(税込) 学生 1,500円(税込)
10:30 集合(旭区区民センター アトリエ兼工作室)
    プログラム紹介と経路とスポットの簡単紹介
    古地図を広げながらのオリエンテーション
11:30 スタート
    まち歩き 約90分
13:00 京阪電鉄千林駅(解散)
京街道案内板

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