本渡章の「古地図でたどる大阪の歴史」~「区」150年の歩み 第1回 その2 大正~昭和は人口爆発、増区・分区の4段跳び時代。

本渡章の「古地図でたどる大阪の歴史」~「区」150年の歩み 第1回 その2 大正~昭和は人口爆発、増区・分区の4段跳び時代。
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UCOでは、NEXT OSAKAを妄想するベースとして、大阪市の辿ってきた道のりを再検証する企画を進めています。その一つが大阪市を形作ってきた歴史を、その土地の成り立ちと経済、文化など様々な要素を持った「区」から見つめ直そうという試みです。

幕末の大阪の中心地であった「大坂三郷」を基礎としながらも、3つではなく「北区」・「東区」・「南区」・「西区」の4つの区から始まり、近代化や戦後復興、人口爆発を経て現在の24区となった経過を「区」の成長(=大阪市の成長)という視点から描かれた「古地図でたどる大阪24区の履歴書」に触発されたテーマです。

区の歴史から見えてくる大阪市の過去と現在を通して未来を妄想してみませんか。

大正時代から昭和にかけての人口爆発

第2のポイントが大正時代から昭和にかけての人口爆発と、区が増えて、分かれて、どんどん大きくなっていく大阪、という時代です。
この間、大阪は4度の大きなジャンプを繰り返しました。
その最初の大きな跳躍が大正14年の「大大阪明細地図」という地図に表われています。

これは大正14年の市街図です。題名に「大大阪明細地図」とあるように、この年、大阪は市域拡張で人口・面積ともに全国一の大大阪になり、「区」も4区から一気に13区に増えました。これまでの4つの区のまわりのエリアを新しい区として大阪市に編入をして、13の区になりました。

同時にもともとの4つの区も人口が増えて、それぞれがまた新しい区を生んでいます。
例えば此花区とか、港区とか、そういう区が西区とか北区から分かれて出ています。あるいは住吉区とか東成区のように、それまでは市街地ではなかったところが新たに市街地となって大阪市の仲間に入って1つの区を形成した区もあります。面積は3倍、人口は全国1位、211万人。
明治元年の大阪の人口は28万人、明治37年に人口は100万人になりました。あっという間です。たった37年で28万人が100万人を超えるのですから、今では考えられないすごいことです。それが大正14年にはさらに倍、211万人。
いくら面積が増えたからとはいえ、ものすごい急成長ぶりです。人口爆発と言っていい、そういう事態になりました。
背景は大阪の近代化、その中身は工業都市への変貌で、工場立地にともなう人口の大規模な流入です。
大大阪誕生時点(大正14年)の人口最大区はどこかといえば、図中の人口グラフに見る通り、西区から分かれ出た港区ですね。この湾岸地帯は、江戸時代に新田地帯でした。明治の初めは田んぼでいっぱいだったこのエリアは、わずかな期間、数十年の間に、大阪港という、巨大な国家事業として建設された日本屈指の近代港湾となりました。近代的な港というのは、護岸を全部コンクリートで固めて、新しくそこに突堤を造り、地上には巨大な倉庫群が並び、物流の仕組みが出来上がり、交通機関がここに延び、一連の関連施設が全体で巨大な港湾エリアを形成したわけです。
途中で予算かせたり無くなって、もうダメか、諦めようみたいな話も出たぐらいの大変な大事業だったわけです。
それにともなって、大阪港を中心に工場と住宅が一気に集積し、人口爆発の最前線となりました。
港区の人口増加ぶりというのは凄まじいものであり、この時点で大阪の人口のナンバーワンは港区になりました。西区から独立して新しい区が1個増えたというのじゃないんですね。大阪成長のエネルギーが、この時点で港区を中心とする此花~大正、この湾岸エリアに一つの爆発のはけ口を見出したわけです。
戦前の、この大正から昭和の初めまで主力となったのは、この西区へ伸びていた江戸時代以来のエネルギーが、さらに海に向かって発展していった時代です。

人口増加と産業発展、そして戦前と戦後

時代の流れというのは、いろいろな要素が組み合わさって動いていて、産業の発展、巨大なインフラができて周りに人口が集中するというだけじゃなくて、戦争という大きな出来事がありました。
昭和21年に発行された「大坂市街鳥観図」。昭和21年という年代が、空襲で大坂市街が大変な被害に遭った後を、焼け跡として赤く記したのがこの図です。もう一目大阪の中心部真っ赤っかです。市街の中心部は真っ赤ですけれども、港湾のあったこの港、大正、此花のうちの一部、こちらも真っ赤になっています。人口は大幅に激減しました。港も工場群も、焼け野原になったところが大半です。

市の中心部と同等に、大被害のあったこの湾岸エリアは、戦争が終わってから復興するのにだいぶ時間がかかりました。復興はノンストップで進んでいたわけですが、そのエネルギーがどこへ行ったかというと、もともとこの港の港湾が発達していたその上流、淀川の上流にあった北岸の、いま現在淀川区、東淀川区、西淀川区と呼ばれている淀川の北側。ここは港から続く水運の大拠点の一部で、港湾地帯に続いて工場の立地が戦前から建設されつつありました。淀川北岸は焼けた面積が比較的少なかった。復興のエネルギーは、この淀川北岸に向かうわけです。
戦後1960年代ぐらいから高度経済成長に入っていった時に、大阪の産業を引っ張っていったのは淀川の北側エリアです。
東淀川区、当時非常に大きな区でありました。東淀川区は人口が増え、かつ大阪のたくさんあった区の中で工業生産高がナンバー1になります。第2位はどこかというと西淀川区です。完全に淀川北岸エリアが、大阪の復興を引っ張る役割を担いました。そういうことがわかる図であります。
なぜ区が分割して増えていくタイミングが、エリアごとによって時代が違うのか、という答えが少しずつ出てきているわけです。そうやって時間差を持ちながらエネルギーを回転していったわけです。それに戦争というのが一つの大きな要素になったということです。

人口だけで見ると戦前のピークが昭和18年、約325万人。昭和40年、復興を成し遂げた大阪が、もう一度戦後の人口最大のピークとなるのが、約316万人だった昭和40年です。戦争中に人口が激減しましたけれども、頑張って回復していった。戦後、焼け跡から再スタートをして、もう一度人口が増えていく過程で分区、増区が進んでいくわけです。
昭和7年に15区に増えました。昭和18年、戦中に22区に増えております。昭和49年に26区に増えていく。淀川北が何に上がって行ったエネルギーが、その矢印がさらに東へ向かうと、旧東成区と言われている東成区とか旭区があるエリアに向かっていきます。この頃には高度成長時代に、もう一度再生していくため、頑張って、日本が働きづめで働いて頑張っていた時代から、少し落ち着いてきた頃に、生活を見直そうという、商業も大事だし、住宅ももっと整備しないといけないし、工場と一緒に住宅が増えていくとなかなか住みづらい街になってしまう。住み分けをしよう。住宅地はやはり川が流れたり、緑があったり、そういう風な環境も大事ではないか。商店街とかそういうものも大事ではないか。そういうわけで、その後ちょっと遅れて発展が進んでいっさた、東成とかそこから出てきた生野とか、あるいは旭区から出てきた千林商店街とか、そういうものが生まれてくる背景がそこにあります。
住宅地もどんどん整備されていく。工場も増えていって、工業都市としての形は続くんですけれども、一方で生活が見直されていった時代。千林商店街、鶴橋の商店街とか、そういうのが大阪の東部に生まれたというのは、そういう意味合いがあります。遅れて出てきた淀川区というのは、十三の商店街があったりします。時代が遅れて生まれた区には、そういう商店街とか、立派なところを伴って発展していったところが多い。人口爆発と区が増えていく時代がそうやって刻まれてきました。

人口が明治37年100万人から300万人くらいになるという。大正時代が100万人、昭和に入って300万人。明治元年28万人でしたから、もう恐るべき激動の爆発時代です。戦争があったにもかかわらず、そのエネルギーは戦後まで持続して、人口300万人時代、区の数も26区になるという、大大大阪が続いていた時代です。
大大阪の図で他の区もご覧ください。明治生まれの西区・南区・北区から此花区・天王寺区・浪速区も分区しました。一方で市の外だった淀川北岸、上町台地東部、旧住吉郡の一帯が市に編入され、東淀川区、西淀川区、東成区、西成区、住吉区になりました。人口が増えた周縁部は実質的に市街の一部を形成していたので、新しい区として編入し、旧市街と一体化した都市計画が望まれたのです。
大正14年、4区から13区へ。これが最初のジャンプです。
明治12年(1879年) 区の誕生した4区
明治12年(1879年) 区の誕生した4区
13区
大正14年(1925年) 4区から13区へ
以後、昭和の大阪は分区による区の増加をくりかえします。昭和7年に2度目のジャンプで15区へ、昭和18年に3度目で22区〉、さらに昭和49年4度目で26区へ。明治12年、4区ではじまった区の歩みは100年足らずで4度ジャンプし、劇的な急成長を遂げました。
昭和18年(1943年) 第2次市域拡張で22区に
昭和18年(1943年) 第2次市域拡張で22区に
昭和46年(1971年)分区により26区に
昭和46年(1971年)分区により26区に
4段跳びで区が増えていく過程を矢印で示した略図をご覧ください。矢印は江戸時代の大坂三郷を引き継いだ明治の4区から出て、まず湾岸に伸び、後に淀川北岸に向かい、上町台地東部をめぐって住吉に至る右回りの大きな渦を描いています。この矢印の意味を理解する鍵が、次にお話する人口問題です。矢印は、人口増大市域が時を経て移動するのと連動しつつ各区が誕生していく大きな流れをイメージ化したものです。
人口増大市域が時を経て移動するのと連動しつつ各区が誕生していく大きな流れ
人口増大市域が時を経て移動するのと連動しつつ各区が誕生していく大きな流れ

■参考資料
大正14年「大大阪明細地図」
『続・大阪古地図むかし案内』140~141頁
『続・大阪古地図むかし案内』143頁
「古地図でたどる大阪24区の履歴書」
著者:本渡章、出版:140B、定価2,200円+税

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本渡章 Hondo Akira
1952年生まれ。作家。
古地図昔案内シリーズなど著書多数。
講演、まち歩きツアー、古地図サロンなどの活動も行っている。

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