大阪での「一強」状態の理由とは
前回、小選挙区制という制度が生む政治文化について述べた。勝者総取りの構造は、二極化を促し、強い人物像を求め、単純な物語を優位にする。この制度的土壌の上に、大阪特有の政治構造が形成された。
ここで言う「政治の型」とは、単なる一政党の勢力拡大ではない。大阪維新の会が築いてきたシステムである。
その型は、大きく三つの要素から成り立っている。
- 首長一体型モデル
- 明確な対立軸の設定
- 改革の連続性
第一に、首長一体型モデルである。
知事と市長をペアで提示し、広域行政と基礎自治体行政を一つの物語に統合する。これは極めて合理的である。政策の整合性を担保し、メッセージを一本化できる。支持者は迷わない。
この構造の象徴が、大阪府と大阪市の統合を掲げた都構想であった。都構想は制度改革の是非以上に、「一体で動く大阪」というイメージを作り上げた。
第二に、明確な対立軸の設定である。
既得権か改革か。無駄か合理化か。古い政治か新しい政治か。この二項対立は、小選挙区制的な物語構造と極めて相性が良い。敵が明確であればあるほど、支持は結集する。
第三に、改革の連続性である。
一つのテーマが終わっても、次のテーマが提示される。議員定数削減、行政改革、統治構造改革。常に「次の戦い」が用意される。この持続的緊張状態が、支持基盤を維持する。
この三層構造こそが、大阪維新の会が作り上げた設計図である。
ここで重要なのは、この型が“悪”であると言うことではない。
むしろ政治工学的に非常に優れている点である。分かりやすく、統率が取れ、実行力がある。
停滞感が始まっている大阪
では、なぜそこに停滞感が生まれるのか。
答えは単純である。この型は「戦うことで前進する」モデルだからである。常に対立を軸にし、常に改革を掲げ、常に壊す対象を探す。戦いが止まれば、物語が止まる。
しかし都市は、永遠に戦い続ける場ではない。ある段階を超えると、運用と安定が求められる。制度を作り直すより、制度をどう使うかが重要になる。
ここにズレが生じる。
都構想が二度否決されたことは、単に賛否が拮抗したというだけではない。大阪の有権者が、強さを求めつつも、その方向性が本当によいとも思えない市民が過半数を超えていたということである。
この型の強さは、「集中」にある。しかし集中は、分配を遅らせる。権限と判断が上に集まるほど、下は待つ構造になる。これは初期段階では有効であるが、成熟段階では摩擦を生む。
さらに言えば、スピード感を持つ型は、トップ依存型である。強い首長がいる間は機能する。しかし個人の力量や人気に依存する構造は、長期的安定性に課題を抱える。
次に必要なのは「動かす力」
ここで問われるべきは、現政権を批判することではない。
この壊すことでしか集まれない型の構造そのものを超えることである。
構造そのものを超えるということは、対立で勝つことではない。
より上位の概念を提示することである。
改革を否定する必要はない。その次を示すことである。
大阪はいま、まだ「強い改革」を求めている。しかし強さには段階がある。壊す強さ、統合する強さ、そして動かす強さである。
維新が作り型は、壊す強さと一本化して単純化する強さに長けていた。
では動かす強さとは何か。
それは、制度を日常に落とし込む力である。
生活単位で成果を積み上げる力である。
広域戦略と生活自治は、本来異なる論理で動くべきである。
経済戦略は集約が有効であるが、防災や福祉は分散の方が機能する。にもかかわらず、政治は一つの強さで全てを処理しようとする。
ここに限界がある。
ターニングポイントはどこか
現在の型が崩れるとすれば、それは対立に敗れるときではない。
戦う必要がなくなったときである。
コロナでは大阪府市政の後手後手で多くの方が亡くなった。
万博は、IRカジノの隠れ蓑として開催されたが、多くの借金が残っている。
2月の衆議院選と同時に行われたダブル首長選挙は全く意味がなかった。
社保改革を掲げつつ、国保逃れ問題は全く解決されていない。
それでも、仮想された「戦い」に大阪は踊らされている。
いつかこの現状に気づき、
市民が「もう壊さなくてよい」と感じた瞬間、この型は役割を終える。
その兆しはあるのか。しかし、停滞感という形で表出している。
その兆候を最も危機感を持って感じているのが、維新の会代表であろう。
おそらく、副首都構想や3度目の大阪市廃止についても、現在の型の延長線上にある。
次回は、「強い実装」という第三の強さについて考えてみたい。
<山口 達也>

