5月3日、4日、5日。大阪市役所のある中之島一帯で、第53回中之島まつりが開催された。半世紀を超えて続いてきたこの市民まつりは、ボランティアによる手づくりを今も貫き、行政や企業に頼らない祝祭空間を中之島公園に立ち上げ続けている。露店の煙、メインステージの音、川沿いのフリーマーケット、中央公会堂で開かれる中之島映画祭——その風景の中に立つと、「市民がつくる」という言葉がまだ生きていることを確認できる。
しかし、立ち止まって考える。このまつりが今もこうして続いている事実そのものが、いまの大阪が失いかけているものを照らし出してはいないか。
起源にあった「マンハッタン計画」への抵抗
中之島まつりが始まったのは1973年である。きっかけは、大阪市役所、大阪市中央公会堂、中之島中央図書館を取り壊し、人工地盤の上に超高層ビル群を建設するという、いわゆる中之島をニューヨークに見立てた「マンハッタン計画」だった。中之島の歴史的建築群と公園空間を一掃し、近代的高層都市へと再開発するという構想である。

この計画に対して声を上げたのが、市民団体や新建築家技術者集団を中心に結成された「中之島を守る会」だった。建築・都市計画の専門家、市民、文化人、経済人が垣根を越えて連帯し、中央公会堂や図書館という大阪の文化的記憶を残すことを訴えた。SF作家・小松左京をはじめ、大阪の知性と呼ぶべき人々がここに名を連ねている。
そして当時、大阪府は黒田了一による革新府政の時代であった。市民運動と行政との間に、対話の回路がまだ生きていたのである。文化人、経済人、専門家、市民、そして行政——この多層的な連帯が、超高層ビル化を押し止め、中央公会堂と図書館を保存する方向へと舵を切らせた。中之島まつりは、その勝利の祝祭として、また「守る」運動の継続装置として始まった。
「守る」連帯から「食い荒らす」構造へ
それから53年。同じ中之島の地で、まつりは続いている。しかし大阪のまちづくりそのものは、当時とはまったく別の論理で動いている。
御堂筋は、歩道拡幅と称して街路の景観改変が進む。沿道のビル群はインバウンド消費に最適化された姿に整えられ、銀杏並木という戦前以来の景観資産は、再開発の都合で揺さぶられ続けている。公園はPFI(プライベート・ファイナンス・イニシアティブ)の名のもとに民間事業者へと運営権が渡され、天王寺公園の「てんしば」型の収益施設化が次々と模倣される。市民の憩いの場であったはずの公園が、コーヒーチェーンとイベントスペースの集合体に置き換えられていく。
そして夢洲のIRカジノ。かつて廃棄物処分場だった人工島に、巨大カジノを核とする統合型リゾートを誘致するという構想は、住民投票を求める法定数を超える署名にもかかわらず、議会の壁の前で押し止められなかった。万博跡地の活用と一体化したこのプロジェクトに、巨額の公費が投入されている。
さらに目を引くのが、行政と特定民間企業との包括連携である。吉本興業、読売新聞——大阪市の財産・行政情報・教育現場まで含めた連携協定が次々と結ばれ、市が持つ資源が「利活用」の名のもとに特定企業の事業基盤へと組み込まれていく。市民は協働の主体ではなく、その仕組みの中で消費者として、観客として、座席を用意される存在に位置づけられている。
「大阪を守る」「大阪をよくする」という言葉の使い手が、53年前と今では完全に入れ替わってしまった。かつて市民と専門家と文化人と経済人が連帯して建築と公園を守ったその場所で、いまはまちそのものが、収益化の対象として静かに食い荒らされている。
連帯の系譜は完全に途絶えたのか
では、「中之島を守る会」のような連帯はもう成立しないのか。完全に途絶えたわけではない。夢洲カジノの是非を問う住民投票を求めた直接請求の署名運動には、法定数を大きく上回る署名が集まった。市民団体、法律家、文化人、一部の経済人が緩やかに連帯したこの動きは、規模こそ小さくとも、53年前の遺伝子を確かに引き継いでいる。
ただし、構造が大きく違う。1970年代の運動には、革新府政という対話可能な行政の存在があった。専門家集団が市民運動の側に立ち、メディアもこれを取り上げた。今の大阪では、行政は府市政のもとで一体化し、議会の多数も与党が握り、メディアも在阪局を中心に行政と一体的なPRに踏み込む。
市民が連帯しようとしたとき、その連帯を受け止め交渉する相手側の窓口そのものが、ほぼ閉じてしまっているのである。
加えて、まちづくりの主導権が完全に「経済成長」と「インバウンド」と「投資呼び込み」の論理に塗り替えられた。観光客でもなく投資家でもない、ただこの街で生活する市民を主語にした未来像を、誰がどこで描くのか。その問いを掲げる場所そのものが、行政・メディア・経済界からは消されつつある。
まつりという記憶装置
それでも中之島まつりは、継続されてきた。震災があり、財政難があり、コロナがあり、それでもボランティアたちは毎年この祝祭を立ち上げ直してきた。手づくりを貫くというその一点に、53年前の連帯の記憶が圧縮されている。
まつりはノスタルジーではない。むしろ現役の問いかけである。「市民がまちをつくる」「行政・文化人・経済人と市民が連帯する」というあり方が、かつて確かに大阪に存在したという事実を、毎年5月の3日間、中之島の地に物理的に出現させる装置である。御堂筋の景観も、PFIで切り売りされる公園も、夢洲のカジノも、包括連携で囲い込まれていく市の財産も——それらに対する違和感や怒りを、孤立した感情ではなく、半世紀続いてきた連帯の系譜の中に位置づけ直すことができる場所、それがこのまつりだ。
「大阪をよくする」「大阪を守る」という言葉を、誰の手に取り戻すのか。観光客と投資家の街なのか、生活者の街なのか。1973年に「中之島を守る会」が突きつけたこの問いは、53年を経たいま、より切実なかたちで私たちの目の前に立ち戻っている。市民と協働する、連帯するまちづくり——それは消えたのではない。中之島まつりが続いている限り、その問いは消えない。問い続け、つくり続けるかどうかは、私たち自身に委ねられている。
<山口 達也>

