日曜日の町並みで感じた、説明しづらい違和感
先日、とある伝統的建造物群保存地区(以下、伝建地区と省略)を歩いた。
伝建地区とは、「古い木造の家や石垣、狭い路地などの景観を次の世代へ伝えることを目的としており、保存地区内では、商店街や住宅の外観が保護され、建物の改修には規制が加わる。これにより、昔の暮らし方や技術を学ぶことができるようにしている地区」だ。
建物は美しく、修理も行き届き、展示や解説も丁寧だった。
「これはちゃんと守られてきた場所だ」と、頭では理解できる。
けれど、心はなぜか落ち着かなかった。
日曜日にもかかわらず、開いている店舗は少なく、
人の流れもまばらで、通りに立つと音が吸い込まれていくようだった。
荒れているわけではない。いや、むしろ、整いすぎている。
その「整いすぎた静けさ」に違和感を感じた。

伝建地区は、成功しているはずの制度である
誤解のないように言っておきたい。
伝統的建造物群保存地区制度は、
日本のまちづくりの中でも、かなり「成功した制度」だと思う。
無秩序な開発から町並みを守り、補助制度や専門家の関与によって、
個人では維持できないレベルの保存を可能にしてきた。
もしこの制度がなければ、
今見られる町並みの多くは、すでに失われていただろう。
だから「伝建地区はダメだ」という話ではない。
むしろ、
ここまでうまくいった制度だからこそ、見えてくる次の問いを感じたのだと思う。
保存されているのは「空間」。では「時間」は?
この場所で保存されているのは、建物であり、景観であり、空間である。
でも、時間はどうだろうか。
今、この場所で生きている人の時間。
日常のリズム。仕事と生活と余白が混ざり合う、あの感じ。
それらは、保存の対象になってはいない。
展示としての「昔の暮らし」は見える。けれど、「今の暮らし」は視界に入りにくい。
町が博物館化する、という言葉がある。
今日感じたのは、その一歩手前の、もっと曖昧な状態だった。

観光か、生活か、という問いの限界
伝建地区では、よく出てくる問いがある。
「観光地として割り切るべきなのか」VS「住民の生活を優先すべきなのか」
でも、この二択は、実はあまり生産的ではない。
観光と生活は、対立概念ではないからだ。
問題は、関わり方の選択肢が極端に少ないことにある。
- 観光客として、短時間だけ消費する
- 住民として、責任を背負って住み続ける
その間にあるはずの、
「ちょっと関わる」「たまに混ざる」「部分的に担う」
そうしたグラデーションは、この法制度には設計されていない。
制度が守ってきたもの、こぼれ落ちたもの
伝建地区の制度は「変えないこと」をとても大切にしてきた。
それは、正しい。
乱暴な更新から町並みを守るためには、強いブレーキが必要だった。
でも、そのブレーキは、
人の関わり方の更新まで止めてしまった側面があるとも言える。
新しく何かを始めたい人。外から関わりたい人。
住んでいないけれど、継続的に関係を持ちたい人。
そうした存在が入り込む余白は、この制度には盛り込まれていない。
進化する自治は、「正解」を持ち込まない
進化する自治の視点で見ると、
必要なのは、完璧な再生計画ではない。
むしろ、
- 少しだけ使われ方が変わる
- 少しだけ関係者が増える
- 少しだけ時間の流れが今に近づく
そうした、小さな変化を許容すること。
たとえば、
- 週に一度だけ開く場所
- 期間限定で関われる仕組み
- 住んでいなくても、役割を持てる関係
それらは派手ではないが、
町に「現在形の時間」を戻してくれる。
保存とは、過去を固定することではない
保存とは、単に過去をそのまま残すことではない。
過去を、今と未来の中で使い直し続けることだと思う。
もし伝建地区が、「完成した風景」ではなく、
「編集中の風景」として扱われたら。
そこには、もう少し人の気配が戻るかもしれない。
町並みを歩いたあとで
歩き終えたあと、
町並みそのものへの敬意は、むしろ強くなった。
だからこそ思う。
この場所に足りないのは、賑わいではない。観光客でもない。
関わり続けてもいい、と思える余白だ。
静かな町並みは、問いを投げかけてくる。
この風景を、「完成品」として眺めるのか。
それとも、「未完のまま引き受ける」のか。
あなたなら、どう関わるだろうか。
<山口 達也>


