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いまも桜の名所としてにぎわう散策道
西に北区、東は旭区に挟まれ、北から東へと淀川が流れ込む特徴的に地の利を持つ都島区。淀川河岸には城北公園や毛馬桜之宮公園、南に下れば桜宮神社に続き旧藤田邸庭園と、春先には桜並木が連なる大阪でも有数の桜の名所が広がっている。明治時代の関西を代表する実業家・藤田傳三郎邸が広がっていた地域で、邸宅跡が公園として残り、桜之宮公園の一部として公開されている。藤田傳三郎は美術品収集家としても名を馳せ、藤田家のコレクションを収蔵する藤田美術館が公園に隣接している。
JR大阪城北詰の3号出口を上がると、そこはすでに旧藤田邸庭園の敷地内。左手に藤田美術館が見える。右手には以前太閤園があった。ここから公園を北に上がっていくと、毛馬桜之宮公園へと続く。
桜の宮は大川(旧淀川)東岸一帯を指す地名で、もともと堤防の上にあった神社の桜宮(現在の中野1丁目)が江戸時代から桜の名所として有名で、神社の名がそのまま地名となった。当時の観光ガイドであった「『摂津名所図会大成」にも花見の様子が描かれている。花見の時期には桜宮社頭から対岸へ船渡しがあり「桜の渡し」と呼ばれていたという。
宮向島(みやこじま)から都島へ
毛馬桜之宮公園へと入り、少し行くと区名の来歴を記した「都島区由来記」という碑が見える。都島という名の由来は、孝徳天皇の長柄豊碕
(ながらとよさきのみや)が淀川を隔てた対岸辺りにあったとか、難波宮(なにわのみや)からみて淀川の対岸にあったなど、古代の都に向かい合う島ということから宮向島(みやこじま)や都向島などに転化したものと考えられている。明治となり一帯の村を統合した際「都島村」と命名され、その後大阪市域拡張と分区を経て昭和18年に都島区として誕生した。

「都島区由来記」の碑を背に北側に目を向ければ、公園を東西に渡る銀色のアーチ橋「銀橋(桜宮橋)」が見える。市の拡張に伴う都市計画事業の一環として1930(昭和5)年に完成。橋長188.850で橋脚の支点間が104mあり、戦前では日本最大のアーチ橋だった。橋全体が銀色であることから「銀橋」と呼ばれ、こちらが通称として知られている。国道1号線の拡幅計画に合わせ、現在は銀橋の北側に新桜宮橋が架かっている。

茶人に愛された淀川の水を称える
銀橋をくぐりしばらく進むと、右手奥の堤防際に「青湾の碑」が建っている。かつて淀川左岸には「青湾」と呼ばれる小湾があり、豊臣秀吉がここの水を好んで茶の湯に用いたと伝わる。青湾の名は、秀吉に仕えた茶人・大江青湾の名からとられたなどとも言われている。後世、湾の近くに住み日々煎茶を淹れるためこここの水を汲んだという文人画家・田能村直入が、播州山崎藩主本多忠明に「青湾」二大字の揮毫を依頼して碑を建てた。1862(文久2)年の春のことで、近隣の大長寺などで「青湾茶会」が盛大に催されたという。
明治時代には、水屋がこのあたりの水を飲料水として大阪市中に売り歩いていたほど、良質の水だったことがわかる。

花見の景勝地と絶賛された名所
青湾の碑から道路側に上がり少し北に歩いていくと地域のシンボルとなった神社「櫻宮」に行きあたる。もともとは野田村(現在の東野田町)にあったが、1620(元和6)年の大和川洪水で社殿が中野村に漂着したと伝えられる。その後幾度も水難にあい、1756(宝暦6)年に現在地に遷宮された。その後境内はもとより淀川の東岸に至るまで桜が植えられ、江戸時代の『摂津名所図会』には「この社頭に神木とて桜多し。弥生の盛りには浪花の騒人ここに来りて幽艶を賞す」とあり、古くより桜の名所として名を馳せた。神社境内の桜は明治1885(18)年の大洪水で浸水し、枯死。西岸の造幣局の桜は残って、現在も通り抜けとして有名。

桜宮は大阪市の近代水道の礎
再び河川側の公園に降り、野球場を横目に遊歩道を北に進む。源八橋をくぐり、都島橋の手前まで来ると、右手に「大阪市水道発祥之地」の石碑が建っている。大阪では水道ができるまでは淀川の水を買っていたりしたが、1886(明治19)年、1890(明治23)年のコレラ流行を端にに上水道設置の機運が高まり、1895(明治28)年11月13日、大阪初の上水道が桜宮を水源地として送水された。1日51,240立方メートル、61万人分の給水能力があった。その後も拡張が繰り返されたが、1914(大正3)年柴島浄水場が完成。給水能力は1日219,000立方メートルとなった。翌1915(大正4)年に桜宮水源地は閉鎖された。
この碑は、水道70周年を記念して昭和40年に建てられたもの。

大阪府指定有形文化財「宝篋印塔」
都島橋を道路側に上がり、都島通りを東に少し行った左手に「都島神社」がある。平安時代の後期、後白河法皇が生母待賢門院の菩提寺「母恩寺」を行幸した折りに、鎮守の神社を置くように命じ1160(永暦元)年に創建されたと伝わる。1943(昭和18)年都島神社と改称。しかし社殿は太平洋戦争末期の空襲で焼失し、昭和24年に再建された。
境内の宝篋印塔は1304(嘉元2)年作で、大阪市内最古の石造遺物かつ三層に積み上げた類例の少ない珍しい形式でもあり、大阪府有形文化財に指定されている。
往時の姿を偲ばせる樹齢800年の大樹
都島神社を出て北に5ブロックほど進んだところに善源寺楠公園が広がっている。公園には「渡辺綱(わたなべのつな)駒つなぎの樟(クスノキ)」と「楠街道の碑」がある。この地には1909(明治42)年まで旧善源寺村の産土神社が鎮座しており、樹齢800年余ともいわれる樟の大樹は同社の境内にあったもの。
この木は平安時代の中ごろ、源頼光が社を創建する際に植えたもので、頼光の四天王の一人で、この荘園の管理を任されていた家臣の渡辺綱が参詣するとき馬をつないだとの伝承があるところから「渡辺綱・駒つなぎの樟」と呼ばれている。この樟は戦災で枯死した。
春風や堤長うして家遠し
善源寺楠公園から再び川岸へと降り、北へと向かう。しばらく行くと、阪神高速守口線が伸びているあたりから長いスロープへと進んでいく。右手から城北川が大川へと連なっているが、この城北川をまたぐように架かっている春風橋(はるかぜばし)である。1981(昭和56)年に完成した自転車歩行者専用橋で、大川側からは美しい直線が見られる。橋の名称は、この地に生まれたの俳人与謝蕪村の句「春風や堤長うして家遠し」(春風馬堤曲)にちなんだもの。銘板も蕪村の自筆句集から複写し、つくられた。

春風橋を渡ったその先に進むと「蕪村公園」へと行き着く。この公園は、江戸中期の俳壇の巨匠であり日本文人画の大成者でもある与謝蕪村を顕彰しようと、10年に及ぶ地元住民らによる働きかけが実り、2009(平成21)年に造営されたもの。与謝蕪村は1716(享保元)年、淀川の堤を臨む毛馬の村(現在の都島区毛馬町)の豊かな農家の生まれ。蕪村は生誕地を離れた後も、幼時を想い毛馬村へ望郷の念を抱き続けていたといいます。
公園内には、蕪村の代表作13句の自筆を刻んだ句碑が設置され、「菜の花や月は東に日は西に」、「春風や堤長うして家遠し」など生まれ故郷、毛馬を詠んだ作品が見られる。そのほか業績や肖像がパネル展示されている。

大阪市の中でも、淀川沿いの位置する区の多くは、経済発展や市域拡大により発達してきたところが多い。都島区も初の水道送水など市の発展の礎を担ったという面もあるが、その一方で、江戸時代から続く花見の名勝であったり、俳人、茶人との関わりなど中世、近世にも大いににぎわった土地でもある。近代以降、舟運から鉄道や自動車輸送へと替わることで川との関係性が薄まる中にあっても、南北に連なる河川と隣接する公園を軸に豊かな文化・生活環境をつくり、提供し続けている。桜ばかりでなく、四季折々に織りなすこの地の文化や歴史を味わってもらいたい。
uco区150年講座
uco区150年では、「桜の名所、清澄な水 淀川沿いの発展をたどる都島区古地図さんぽ」を開催します。
厳寒期ではありますが、古地図研究者の本渡章さんの解説を聞きながら、都島区に残る文化の標を歩きましょう。
- UCO区150年講座「桜の名所、清澄な水 淀川沿いの発展をたどる都島区古地図さんぽ」
- 案内・本渡章さん(作家・古地図研究者)
- 2025年2月24日(月・祝) 10:00~12:30
- 参加費 3,000円(税込) 学生 1,500円(税込)
10:00 集合(私学会館306号室)
プログラム紹介と経路とスポットの簡単紹介
古地図を広げながらのオリエンテーション
11:00 スタート
まち歩き 約90分
12:30 大阪メトロ・都島駅(解散)
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