琵琶湖での「石けん運動」
かつて滋賀県では、琵琶湖の水質保全をめぐって「リンを含む合成洗剤をやめて、石けんを使う運動=石けん運動」が盛んに行われた時期があった。1970年代から80年代にかけて、家庭排水に含まれる界面活性剤が湖の富栄養化を進め、藻類の異常繁殖や水質悪化を引き起こしていた。琵琶湖の汚染は県民の生活に直結する深刻な問題であり、行政や住民は危機感を共有した。滋賀県では1979年、日本で初めて「琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例」を制定し、合成洗剤の使用を制限する方向に舵を切った。この動きは全国的にも注目を集め、環境保護の象徴的な出来事として語り継がれている。(現在も下記のように進行中)
当時の運動は単なる「洗剤反対」ではなく、「暮らしのあり方を見直す」という社会的ムーブメントであった。
住民たちは手作り石けんを普及させ、学校教育でも水環境の大切さを教えた。家庭の排水一滴一滴が琵琶湖につながっているという実感があった。つまり、消費と環境を切り離さずに考える思想が地域全体に共有されていたのである。
現在に置いても琵琶湖ではこの活動は続いているが、全国的に観て、あの時代の熱心さは失われてしまったように感じる。テレビCMをつければ、「頑固な汚れも一瞬で落ちる」「除菌99.9%」「塩素パワーで真っ白に」といった強力さを競う宣伝ばかりが目に入る。
流し台や風呂場、トイレ、衣類、さらには床や壁まで、あらゆる場面で「より強い」「より速い」洗剤が登場している。消費者の利便性や衛生意識の高まりを背景に、洗剤は次々と進化を遂げているかのように見える。
だが、その一方で、環境負荷の問題はどこかに置き去りにされているように感じる。塩素系漂白剤や除菌洗剤の多くには、環境中で分解されにくい化学物質が含まれている。
排水として流れ出た後、下水処理場で完全に除去されるとは限らない。処理をすり抜けた成分が河川や湖沼に流入し、微生物や水生生物に影響を与える可能性がある。
近年では「マイクロプラスチック」や「PFAS(有機フッ素化合物)」など、新たな環境汚染物質が問題視されているが、これらも同様に「見えない便利さの代償」といえる。
さらに、企業のマーケティング手法にも違和感がある。「環境にやさしい」「エコ」「ナチュラル」といった言葉が氾濫しているが、その多くは本質的な環境負荷低減とは結びついていない。ボトルに緑の葉のデザインを施し、リサイクル素材を一部に使用しただけで「エコ商品」と名乗る。
中身の化学成分が従来と大差ない場合でも、見た目の印象で消費者は安心してしまう。こうした“グリーンウォッシュ”は、かえって環境意識の形骸化を招いている。

私たちは何かを見失っていないか
思えば、かつての石けん運動は、生活者自身が「自分の手を汚さずに環境を守ることはできない」という覚悟をもっていた。石けんを手作りするのは手間がかかったが、その行為自体が「水とともに生きる」意識を呼び覚ます営みだった。
現代は、あらゆる家事を“効率化”の名のもとに機械と化学に委ねてきた。もちろん利便性を否定するつもりはない。しかし、便利さが「考えない消費」へとつながるなら、私たちは再び同じ過ちを繰り返しているのではないか。
環境負荷の問題は、技術が進めば自動的に解決するものではない。むしろ技術が進歩するほど、私たちは「本当に必要か」を見極める倫理的判断力を持たなければならない。
強力な洗剤が当たり前になる社会では、「汚れを落とすこと」が「環境を汚すこと」につながるという根本的な矛盾を見失いがちだ。清潔さの追求が、人間の健康と同時に地球の健康を損ねる可能性を孕んでいることを、私たちはもっと意識すべきである。
自分ごととしての環境問題
滋賀県の条例制定から半世紀近くが過ぎた。琵琶湖は一定の回復を見せたが、依然として富栄養化のリスクは残っている。環境教育の現場でも、かつてのような住民参加型の運動は減り、専門家や行政任せの取り組みが増えている。だが、環境問題の本質は技術や制度だけでなく、「暮らしの思想」にある。日常の選択が環境を形づくるという意識を取り戻さない限り、真の解決は訪れない。
たとえば、洗剤を使わなくても落とせる汚れは多い。重曹やクエン酸など、自然由来の素材を使えば十分きれいになる場面もある。水と布だけで掃除する方法も、やり方次第で衛生的に保てる。何よりも、「汚れがつく前に予防する」暮らし方を工夫すれば、強力な化学洗剤に頼る必要は少なくなる。手間を惜しまず、自然と共にある生活リズムを取り戻すことこそ、かつての運動が私たちに残した最大の遺産ではないだろうか。
「環境にやさしい」という言葉を、本来の意味で取り戻したい。便利さの裏にある環境負荷を見つめ直し、消費者としての選択を自覚的に行う。その一歩一歩が、未来の水を守る礎になる。琵琶湖の教訓は決して過去の話ではない。今この瞬間も、私たちの排水がどこかの川を流れ、海へとつながっている。清潔さを求めることと、地球を汚さないこと──その両立をもう一度、私たちの手で考え直す時が来ているのである。

<山口 達也>


