[AIと教育①]「学ぶ」とは何なのか

コラム
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『代謝建築論―か・かた・かたち』から

学生時代、私が強く影響を受けた建築家の一人に、菊竹清訓がいる。

代表作には東京・両国の東京都江戸東京博物館などがあるが、私が学生時代に菊竹から受け取ったものは、個々の建築の形以上に、その「考え方」だった。

その一つが、『代謝建築論―か・かた・かたち』である。

私が持っている本とは表層が違いますが。

タイトルだけを見ると、建築を専門にしていない人にはかなり難しそうに見えるかもしれない。しかし、私自身はこの本から、非常に単純で、それでいて今でも使い続けられる思考方法を学んだ。

目の前にある「形」だけを見て考えない。なぜそれが必要なのか。何を実現しようとしているのか。そのために、どのような仕組みや技術が必要なのか。そして、その結果としてどのような形が生まれるのか。

私は、菊竹の「か・かた・かたち」を、おおよそそのように受け止めてきた。

〈か〉とは、その根底にある本質や構想。
〈かた〉とは、それを実現する機能や技術、制度や仕組み。
〈かたち〉とは、最終的に私たちの前へ現れる具体的な形や空間。

もちろん、これは菊竹の建築論をかなり単純化した理解である。ただ、この「いま見えているものを完成形だと思わず、その成立理由まで遡って考える」という方法は、建築以外のことを考えるときにも非常に有効だと思っている。

そして今、もう一度この考え方から考えてみたいものがある。

学校である。

ただし、いきなり「学校とは何か」と問う前に、さらに一段戻って考えなければならないことがある。
そもそも、「学ぶ」とは何なのだろう。

「知ること」と「学ぶこと」は、同じなのか

私たちは日常的に、「今日はこれを学んだ」と言う。

英単語を覚えた。方程式を解けるようになった。歴史上の出来事を知った。パソコンの操作方法を覚えた。もちろん、これらも学びである。

知らなかったことを知る。できなかったことができるようになる。教育にとって非常に重要な部分である。けれども、それだけが「学ぶ」ということなのだろうか。

自分自身の経験を振り返ってみると、必ずしもそうではない。

建築を学び始めた頃、私は建物をただ「形」として見ていた。しかし構造を学び、法規を学び、都市を学び、人が建物をどう使うのかを考えるようになると、街を歩いたときに見えるものが変わっていった。

ところが学んだあとには、そこに構造が見え、法規が見え、人の動きが見え、土地の使われ方や社会の事情まで見えるように感じた。

建物そのものが変わったわけではない。変わったのは、こちらである。

つまり学ぶということには、
何かについて知識を増やすことだけではなく、世界を見る自分自身の側が変わる
ということが含まれている。

学ぶことで、世界の見え方が変わる

歴史を学ぶことも同じではないだろうか。ある制度について、その制度がいつ、どのような理由でつくられたのかを知る。すると、それまで「昔からそういうものだ」と思っていたものが、ある時代の人間が選択してつくった仕組みに見えてくる。

つまり、
「当たり前」が「選択されたもの」に変わる。

これは大きな変化だ。地面は動いていないように感じる。しかし地球が自転し、太陽の周りを公転していることを知れば、自分が立っている世界そのものの見え方が変わる。文学を読むことで、自分には想像できなかった他人の感情に触れることもある。誰かとの会話によって、自分が当然だと思っていた価値観が、実は全員に共通するものではなかったと気づくこともある。
こうした経験を考えると、「学ぶ」とは単に情報を頭の中へ追加することではない。

学ぶ前とは少し違う場所から、世界を見るようになること

なのではないかと思う。

最初からゴールが分からない「学び」

ここでもう一つ考えたいことがある。
学ぶという行為には、始める前には、その結果が完全には分からないものがある。

自転車に乗れるようになる。英検に合格する。資格を取得する。
こういう学習形態には、比較的はっきりしたゴールがある。

しかし、本を読んだことで人生観が変わることは、読む前には分からない。ある先生と出会ったことで、それまで関心のなかった分野へ進むこともある。友人の何気ない一言から、自分の考えが根本から揺らぐこともある。

最初から「私はこの授業によって三か月後に世界観を変えます」
と予定して学ぶ人はいない。

何に出会うのか、引っかかるのか、そして何が自分の中へ残るのか。
それは、始める前には完全には分からない。

つまり学びには、
到達地点があらかじめ決まっているものと、学び始めたことで初めて次の行き先が見えてくるもの がある。

「習得」と「変容」

前者を知識の「習得」とすると、この「習得」は教育として設計しやすい。
一方で、自分のものの見方が変わる学びは、それほど簡単には設計できない。ある知識と別の知識が突然つながる。誰かとの出会いによって、それまで興味のなかった世界が見えるようになる。失敗したことで、自分が何を知らなかったのかに気づく。自分とは違う考えに出会い、それまでの自分の判断を修正する。

こちらは「習得」というより、変容に近い。

ただし、この二つは別々のものではない。最初はただ覚えていた知識が、あるところで突然つながり、世界の見え方を変えることがある。
歴史の年号を覚えていた人が、あるとき「現在も歴史の途中なのだ」と気づく。
技術を習得するうちに、その技術によって自分が見ている世界まで変わる。

だから教育には、おそらく両方が必要なのだと思う。

学校論:「自動車教習所」と「劇場」

学生時代、学校建築について考えていた頃、私は何度か、学校は「自動車教習所」のようなものと「劇場」のようなものへ分かれていく、という趣旨の議論に触れた記憶がある。誰がどの文章でそう書いていたのか、今となっては正確には思い出せない。ただ、この対比だけは長く私の中に残っている。

そして今あらためて考えると、この二つは「学校建築の形」の話というより、学びの二つの性格を表していたのではないかと思えてくる。

自動車教習所ではゴールが決まっている。決められた課程を終え試験に合格する。
教える側も、学ぶ側も、どこへ向かっているのかを知っている。
だからこそ、非常に合理的な「習得」の教育システムをつくることができる。

一方、劇場では人が集まり、誰かが何かを表現する。同じものを見ても、人によって感じ方は違う。予想していなかった反応が生まれ、そこからまた別の出来事が起きる。結果を完全には予測できない。こちらは、「変容」が起きる場所に近い。

学校はどこに向かっているのか

当時、学校は究極この2つに二分されると感じていたが、現在もそれほど大きく仕組みが変わっているわけではない。

人間が何かを学ぶには、習得が必要である。文字を読めなければ、本を通じて世界を広げることは難しい。基礎的な計算能力がなければ、数字を使って社会を考えることも難しい。歴史的事実を知らなければ、現在の社会がどのようにできたのかを考えることもできない。だから、一定の知識や技能を体系的に教える仕組みは必要であり、自動車教習所的な学校には大きな意味がある。

しかし、人間が社会の中で直面する問題の多くには、最初から正解が用意されていない。だからこそ人は、知識を使い、他者と話し、自分の考えを疑い、ときには考え直しながら判断する。そこには、「習得」だけではなく「変容」が必要になる。

学校という〈かたち〉から考えない

ここで、菊竹清訓の「か・かた・かたち」へ戻りたい。


私たちは学校について考えるとき、どうしても学校という〈かたち〉から入リがちだ。一クラス何人にするか。教室をどうするか。タブレットを何台配るか。

もう少し遡れば〈かた〉がある。学年制。一斉授業。学習指導要領。試験。

しかし、そのさらに奥には〈か〉がある。
では、教育における〈か〉とは何なのか。私は、それを「学校は何のためにあるのか」とだけ考えていた。しかし、もう一段遡る必要があるのだと思う。

そもそも、人はなぜ学ぶのか。
そして、学ぶことで、人の中では何が変わるのか。

学びによって、本人がそれまで持っていなかった選択肢を持てるようになる。
見えていなかったものが見えるようになる。
自分が置かれている状況を言葉にできるようになる。
「これは当たり前ではない」と気づけるようになる。
別の生き方があることを知る。
そして、自分で考える余地が広がる。

教育にとって重要なのは、その人が、自分の現在地と、そこから先に存在する選択肢を以前より広く見られるようにすること、であり、そうだとすれば、学校の役割も少し違って見えてくる。

「教えること」と「学ぶこと」は同じではない

学校では、教師が教える。だから私たちは、教えたものを生徒が学ぶと考えがちである。

しかし、実際にはそれほど単純ではなく、同じ授業を受けても、何を受け取るかは一人ひとり違う。先生が意図して教えた内容より、余談の方が記憶に残ることもある。友人との会話から理解することもある。失敗を通じて初めて分かることもある。

逆に、どれほど丁寧に教えても、その時点では何も響かないこともある。数年後になって初めて、昔教わった言葉の意味が分かることさえある。

つまり、
教えることは設計できても、学びそのものを完全には設計できない。

これが教育を他のサービスと同じように扱えない理由のひとつだ。提供したものと、受け取られるものが一致するとは限らない。教育には、どうしても余白が残る。

学校に必要なのは「余白」ではないのか

自動車教習所は、無駄を減らすことで完成度が上がる。
必要な知識を、必要な順序で、必要な時間だけ学ぶ。余計なことをしない方が効率的である。

しかし、「変容」を含む学びではどうだろう。
寄り道。雑談。偶然の出会い。失敗。時間の無駄に見える試行錯誤。

そうしたものの中から、思いがけない学びが生まれることがある。だとすれば、学校を効率化するときには気をつけなければならない。効率の悪い部分を取り除いた結果、一緒に「学びが起きる余白」まで取り除いてしまう可能性があるからだ。

これは、これから学校を考える上で、とても重要な問いになると思っている。

再び戻ってきた何十年も前の問い

私は学生時代から、菊竹清訓の「か・かた・かたち」に影響を受けてきた。
そして学校についても、自動車教習所と劇場という二つのイメージが長く頭に残っていた。しかし、その問いを持ちながらも、学校という制度の根本を改めて考えることは、どこか先送りにしてきたようにも思う。

教育改革といっても、基本的な形は大きくは変わらなかった。ところが今、その前提をもう一度考え直さなければならない状況が生まれている。

そのきっかけの一つが、AIの出現である。
ただ、この連載ではまだAIの使い方について話をするつもりはない。
AIを授業でどう使うか。宿題に使ってよいのか。教師の仕事がどう変わるのか。

それより先に考えなければならないことがある。

AIの出現によって、私たちは改めて、
「教えること」と「学ぶこと」は、本当に同じだったのか
と問われ始めているのではないか。

そして、

学校とは、何かを効率よく習得するための場所なのか。それとも、人がそれまでとは少し違う自分になるための場所なのか。

もちろん、答えはどちらか一つではないだろう。
だからこそ、もう一度考え直したい。

学校という〈かたち〉を変える前に。
教育の〈かた〉を変える前に。
その奥にある学ぶとは何なのかという〈か〉

から。この連載コラムは、そこから始めたい。

<山口 達也>

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