「都構想」の賛否以前の話
今回の記事は、大阪市を廃止して特別区を設置する制度に賛成か反対かを論じたいわけではない。
私が驚き、そして問題だと感じたのは、制度そのものではなく、
その制度を市民にどう伝えるのかという行政の姿勢である。
権力や権威というものを、私はあまり好んではいない。もちろん、社会には行政も政治も必要であり、一定の権限を持つことは当然だと思っている。
しかし、その権限を背景に、事実を曖昧にしたり、都合のよい言葉へ置き換えたり、市民が判断するために必要な情報を十分に伝えなくなったとき、戦前の景色にも似た大きな危うさを感じる。
だから今回の出来事は、純粋に記録として残しておきたいと思った。
2026年6月30日、大阪市議会財政総務委員会で、横山市長は「大阪市廃止」という言葉は使うべきではないとの認識を示したと報じられた。
大阪都構想、市議会が論戦の舞台に 委員会で市長「大阪市廃止の言葉使うべきでない」
産経新聞2026/6/30 21:30
一見すると、単なる表現の問題にも思える。
しかし私には、この発言は民主主義の根幹にも関わる問題のように映った。
住民投票で問うのは「大阪市を廃止すること」
まず確認しておきたいのは、住民投票で問われる制度の内容である。法制度上、住民投票の対象となるのは、
「大阪市を廃止し、特別区を設置すること」
である。これは反対派が作ったキャッチコピーではない。制度そのものを表す法的な表現である。もちろん、「廃止」という言葉には強い印象がある。
しかし、印象が強いことと、事実であることは別問題である。
行政に求められるのは、市民が制度を理解するために必要な事実を正確に伝えることであり、印象を和らげるために法的な表現を避けることではない。
もし行政の側が「この言葉は使わないほうがよい」と判断し始めるのであれば、市民は何を基準に制度を理解すればよいのだろうか。
行政の説明責任とは何か
行政は、制度の賛成派でも反対派でもない。制度を運営し、市民へ説明する立場である。だからこそ求められるのは、
「分かりやすい説明」だけではなく、「正確な説明」である。
言葉は制度を理解する入口になる。
入口で事実と異なる印象を与えれば、その後の判断にも影響する。行政には、制度を魅力的に見せる義務も、不安をあおる義務もない。あるのは、市民が自分で判断できるだけの情報を、できる限り正確に伝える責任だけである。今回の発言には、その基本姿勢を無理やり消そうとしている印象を受けた。
「大阪都構想」という言葉も同じ基準で考えるべき
ここで、もう一つ気になることがある。
仮に、「大阪市廃止」という言葉は誤解を招くから使うべきではない、という考え方を採るのであれば、「大阪都構想」という名称についても同じ基準で検討されるべきである。
「大阪都構想」という言葉を聞くと、多くの人は「大阪府が東京都のように大阪都になる制度」と受け取る。
しかし、住民投票で問われる制度はそうではない。
住民投票で問われるのは、大阪市を廃止し、特別区を設置することまでである。
大阪府が「大阪都」という名称になるわけではない。そのためには別途、法改正などが必要であり、住民投票だけで実現するものではない。
つまり「大阪都構想」という名称も、制度をそのまま表現した正式名称ではない。
もちろん、この名称は長年にわたって政治的な呼称として使われ、社会にも定着している。だから今さら使用をやめるべきだ、と言いたいわけではない。しかし、「誤解を招く表現を避ける」という基準を採るのであれば、その基準はすべての言葉に平等に適用されなければならない。
一方だけを問題視し、もう一方は当然のように使い続けるのであれば、それは公平な基準とは言えない。
怖いのは行政が「使ってよい言葉」を決め始めること
今回、私が最も危惧しているのはここである。
民主主義では、市民は言葉を通して制度を理解する。その言葉が変われば、制度の見え方も変わる。見え方が変われば、判断も変わる。
だからこそ行政には、制度を説明する際に特定の印象へ誘導するような言葉選びではなく、事実をそのまま伝える姿勢が求められる。
もちろん、言葉は時代とともに変化する。
より分かりやすい表現へ改めることもある。
しかし、それは制度の内容を正確に伝えるためでなければならない。
当たり前なのだが制度の印象を変えるためであってはならない。
行政が「この言葉は使うな」「こちらの言葉を使え」と言い始めたとき、市民は知らないうちに、制度そのものではなく、行政が整えたイメージで制度を見るようになる。
民主主義にとって、それは決して小さな問題ではない。
市長は誰を代表しているのか
私は、市長が特定の政治的信条を持つことまで否定するつもりはない。
政党の推薦を受けて立候補することも、政治家として当然の活動である。
しかし、市長に当選した瞬間から、その立場は本来一つの政党だけを代表するものではなくなる。代表するのは大阪市民全体である。
だからこそ、市長には制度の賛否を語る前に、市民が制度を理解するための条件を整える責任がある。
その責任は、どの政党の市長であっても変わらない。
行政が一方の政治的表現だけを採用し、もう一方の法的な表現を避けるような姿勢を見せれば、市民は行政そのものへの信頼を失っていく。行政への信頼は、一度失われると簡単には戻らない。だからこそ、説明する立場の言葉には慎重さが求められる。
二度の住民投票を経た今だからこそ
今回の制度は、初めて提案されるものではない。これまで二度、住民投票が行われ、その結果はいずれも否決であった。
制度を三度提案すること自体を信じがたいことであるが、知事・市長とも社会情勢が変わったという理由で、厚顔無恥にも三度目のプロセスに入った。
しかし、その場合に最も大切なのは、少なくとも、市民が前回、前々回以上に制度を理解できる環境を整えることである。
それにもかかわらず、制度を表す法律上の言葉まで避けるような姿勢は、本当に市民の理解を深めることにつなげようという意図も意志も感じられない。
できれば無関心なまま、なんとなく成立させたいということを感じざるを得ない。
市民が判断するために必要なのは、正確な言葉である
民主主義とは、多数決だけではない。市民が制度を知り、情報を比較し、自分自身で考え、判断する。その条件が整って初めて、多数決は意味を持つ。
だから行政には、市民が考えるための材料をできる限り正確に示す責任がある。
今回の問題は、「大阪市廃止」という言葉を使うかどうかという表現論ではない。行政が制度を説明するとき、どこまで事実をそのまま伝える覚悟を持っているのかという問題である。
私は、大阪市を廃止して特別区を設置する制度への賛否以前に、市民が正確な情報を基に判断できる環境こそ守られるべきだと考えているが、前回も前々回も全く正確な情報配信は履行されてこなかった。
区民だよりには、大阪市を廃止して特別区を設置する制度への利点ばかりが紹介されていたことは今でも記憶に残っている。
制度は住民投票で市民が決める。
しかし、その判断材料となる言葉まで行政が選別してしまえば、市民が自ら考える土台は根本から崩されていく。だから私は、今回の市長発言を、単なる言葉遣いの問題として受け流すことはできない。
さらに市長は、大阪市廃止を大阪市再編と呼び直している。大阪市がなくなるというのに。再編とは大阪市があって、大阪市の中を再度編纂し直すことであり、大阪市を廃止して再編するとは言わないし、言えない。
行政が守るべきものは、自らに都合のよい言葉ではないはずだが、残念ながら、テレビ・新聞等のマスコミは大阪市が廃止されるのを伏せて、大阪市再編というワードを使い始めている。
市民が、自分の頭で考え、判断できる条件をわざわざ捻じ曲げて、行政とマスコミが情報配信している。こんなことが許されていいのか。
強い強い憤りを感じずにはいられないため、コラムとして書き残した。
<山口 達也>


