なぜ政治家は「一度決めたこと」を手放さないのか——都構想、権力という生きもの

コラム
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「私の任期中に都構想に再挑戦することはない」。そう明言していたはずの大阪府知事が、再び動き出した。5月15日には大阪市会の維新市議団も法定協議会へ向かう方向となり、舞台装置は静かに組み直されつつある。

しかも今回は、ただの三度目ではない。
「副首都」というより大きな器に都構想を抱き合わせてくる気配がある。

「副首都を目指すなら『都』へ名称変更が可能」「ならば住民投票は府全域で」——この理屈で府の名称変更と大阪市の廃止・特別区再編を一本にまとめ、一気に決着させる。法定協の名前を「副首都にふさわしい大都市制度協議会」とするのも、主役を副首都に見せて市の解体を脇に置く設計に見える。少なくとも、そう読める余地は十分にある。

ここで多くの人が抱く問いは、たぶん同じだ。

「どうしてそこまでして大阪市を解体したいのか。府市一体条例で回している今のままでは、なぜダメなのか」

今日はこの問いを、特定政党の善悪としてではなく、「政治家という生きものは、なぜこう振る舞うのか」という一段引いた視点から解きほぐしてみたい。
これは大阪だけの話ではなく、洋の東西を問わず政治家に共通する「性(さが)」なのか。

引き返せない——サンクコストという重力

人は、注ぎ込んだものが大きいほど、撤退できなくなる。心理学でいうサンクコスト効果だ。すでに失った時間・お金・労力は取り戻せないのに、「ここでやめたら全部ムダになる」という痛みが、合理的な撤退を妨げる。

都構想には、十年を超える歳月と巨額の事務コスト、二度の住民投票が積み上がっている。普通の人間なら「もう二回否決された、撤退だ」となる。
だが投資が巨大であればあるほど、政治家の頭の中では逆向きの力が働く。「ここまで来たのだから、引き返す方がもったいない」。撤退は過去の自分の全否定になり、それは政治家にとって死に等しい。

また実は副首都を言い出したのが2017年。既に10年目となり、副首都推進局なる部署も100名を超えている。現政権にとっても引き返せないくらい予算をかけているのだ。

サンクコストは、合理的な人間ほど苦しめる重力だが、それ以上に政治家は、引き返さない理由を探す天才でもある。

名を残したい——レガシーという麻薬

政治家を動かす燃料の中で、最も強く、最も語られないのがレガシーねの欲求だ。任期は有限だからこそ「自分が在任中に、後世まで残る何かを成し遂げた」という証を欲しがる。

予算の配分や条例の運用は、地味で、消えていく。だが制度そのものを作り替えることは、地図を書き換える行為だ。「大阪府」を「大阪都」に変え、政令市を解体して新しい行政の形を残す——これは教科書に載るスケールの仕事ではある。

府市一体条例は「うまく回す運用」にすぎない。レガシーを求める政治家にとって、運用は記念碑にならない。彼らが欲しいのは、運用ではなく構造物でありレガシーなのだ。ここに、「条例ではダメなのか」という素朴な問いへの、身も蓋もない答えの一つがある。

政策が「自分」になる——アイデンティティの一体化

都構想は、とある政党にとって結党以来の看板政策「一丁目一番地」と言われてきた。長く掲げた旗印は、やがて単なる政策ではなく集団のアイデンティティそのものであろう。

ここが厄介なところで、アイデンティティ化した政策を手放すことは、「政策の撤回」ではなく「自己の否定」として体験される。だから合理的なコスト計算が効かなくなる。「これをやめたら、我々は何者なのか」という存在不安が、撤退を不可能にする。

人間は、自分が何者であるかを規定してくれるものを、損得を超えて守ろうとする。政治家にとって長年の旗は、まさにそれだ。

「あと一回」の罠——僅差の呪いと損失回避

過去二回の住民投票は、いずれも僅差で否決された。これが事態を一層やめにくくしているとも考えられる。

もし大差で負けていれば、人は「民意は明確だ」と諦めがつく。だが僅差は最悪の毒だ。「あと少しだった」「やり方を少し変えれば届く」という希望を残し、撤退を許さない。これはカジノで負けが込んだ人ほど席を立てない心理——損失回避とエスカレーションの罠——とまったく同じ構造だ。

ただし、当時の市長は、1票でも負けは負けとも言っていた。そして2回目では僅差が拡大した。それだけに3回目はもうなかったはずだ。

しかし今回は「投票範囲を府全域に広げれば可決の可能性が上がる」という新しいルートが見えてしまった。負け続けた賭場で、急に有利なテーブルが用意されたように見える。理性ではなく、勝ち筋が見えたという興奮が、次の一手を呼ぶ。

摩擦を消したい——権力は一元化したがる

「府市一体条例ではダメなのか」という問いの核心は、ここにある。

条例による協調は、相手の同意が前提だ。市長と知事が別人で、思想が違えば、いつでも崩れうる。他者の同意に依存する権力は、政治家にとって本質的に不安定なのだ。一方、市を解体して権限を府に一元化すれば、同意は不要になる。摩擦を生む拒否権プレイヤーが制度ごと消える。

政治家——というより権力という機構そのもの——には、意思決定の摩擦を減らし、自分の手に統合したいという志向が組み込まれている。これは善悪以前の、力学に近い性質だ。「一体条例で十分」という外部の合理性と、「同意に頼らず統合したい」という内部の力学は、最初から噛み合っていない。だから議論が平行線になる。

特に現政権は、民主主義的な熟議よりもスピード感という名の独裁的な政治を好んでいる。一元化は最も都合の良い手法であるわけだ。

手続きを武器にする——「抱き合わせ」という古典技法

副首都・名称変更・市の廃止を1回の住民投票に束ねる。仮にこの設計が進むなら、それは政治の世界では珍しくも新しくもない古典的技法だ。

英語圏では「ログローリング(票の抱き合わせ)」や「オムニバス法案」と呼ばれる。人気のある大義(副首都・名称変更)に、単体では通りにくい中身(市の解体)を同梱する。有権者は大義に賛成したいがために、中身ごと飲み込む。賛否を切り分けられないこと自体が、設計上の「効能」になる。

身内の市議団から「切り分けた方がいい」「市内のことを府民に決められるのは違う」と反発が出ているのは、彼らがこの効能と副作用を熟知しているからだ。手続きの組み方は、中立の器ではなく、結果を左右する武器になりうる——政治家はそれを骨身で知っている。

では、なぜ「条例で十分」と言えないのか

ここまでを束ねると、最初の問いに答えが出る。府市一体条例で実務が回るかどうかは、実は問題の本質ではない。

政治家を突き動かしているのは、
運用ではなく記念碑が欲しい(レガシー)、
手放すと自分が消える(アイデンティティ)、
ここまで来て引き返せない(サンクコスト)、
あと一回で届くかもしれない(僅差の呪い)、
同意に頼らず統合したい(権力の一元化志向)
——これら複数の力学の合算だ。

条例はそのどれも満たさない。だから「合理的にはそれで足りる」という正論が、まったく刺さらない。

これは特定の政治家が異常なのではない。有限の任期の中で、有権者の同意という不確実なものを相手に、後世に残る何かを刻もうとするエゴ——その役割に就いた人間が、構造的に陥りやすい振る舞いなのだ。
情熱と信念という名前で、政治家のエゴが、いつのまにか引き返せない世界へと姿を変えていく。

一方で、フェアに見ておきたいこと

ただし、これを冷笑で終わらせるのは公平ではない。
運用でしのぐ漸進主義より、構造に手を入れる方が誠実だ、という立場は確かに成り立つ。非常時の首都機能バックアップという論点も必要であることは事実だ。

問題は為政者の信念の有無ではなく、信念が、引き返せなさや手続きの抱き合わせと結びついたとき、有権者の選択の自由をどれだけ守れるかにある。
大義と中身を切り分けて、一つずつ問う誠実さを保てるかどうか。そこが、レガシーへの情熱が暴走するか、まっとうな改革に留まるかの分水嶺だ。

呆れて物が言えない、という気持ちはよく分かる。
けれど政治家を「特別に強欲な人種」と見るより、誰しもがあの椅子に座れば働いてしまう力学として理解した方が、私たちは冷静に手綱を握れる。
怒りより、構造を見抜く目を。最後に決断を迫られているのは、いつだって有権者の側だ。

<山口 達也>


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