騙すほうが悪いのか、騙される国民がダメなのか。

この問いは、怒りと無力感が混ざったときにふと口をついて出る言葉である。だが、その二項対立に乗った瞬間、思考は止まる。政治の側の欺瞞か、民衆の愚かさか。どちらかを断罪することで、私たちは一瞬すっきりする。しかし、その構図こそが、何度も歴史のなかで再生産されてきた罠ではないか。
たとえば、大阪府知事選をめぐって語られた「副首都構想への信任」という言葉。選挙に勝ったことをもって、特定政策への白紙委任と読み替えるレトリックである。選挙は本来、複数の論点が交錯する場である。景気、福祉、コロナ対応、教育、人物評価――さまざまな要素が絡み合う。にもかかわらず、勝利=単一政策への信任という物語がつくられる。そしてマスコミがそれを既成事実のように流すと、やがて「そういうことになった」空気が固定化される。
ここにあるのは、明白な虚偽というよりも、「解釈の独占」である。言葉の意味を先に押さえた側が、現実を定義する。これがプロパガンダの核心である。
選挙は疑義を清算する魔法の儀式か?
同様に、中央政治においても、裏金問題や旧統一教会問題が「もう信任は得た」としてフェードアウトしていく構図は想像に難くない。選挙で勝ったのだから、国民は了承したのだ、と。だが本当にそうなのか。選挙による投票行動が、すべての疑義を清算する魔法の儀式であるはずがない。
それでも、決まり文句のようにこう言われる。「それを選んだのは国民だ」。このフレーズは一見、民主主義の原則を語っているようでいて、実は思考停止のスイッチでもある。責任を「国民」という巨大で匿名的な塊に溶かし込むことで、個々の具体的なプロセス――情報の偏り、争点のすり替え、メディアの忖度、組織票の構造――が見えなくなる。
私は、この「国民が選んだのだから仕方がない」という言説に、どこか冷たいものを感じる。そこには、成熟した市民像への信頼というより、あきらめに近い響きがある。民主主義とは本来、常に未完成で、常に問い直されるべき運動体であるはずだ。選挙はゴールではなく、プロセスの一部にすぎない。
歴史を振り返れば、権力が「信任」を拡大解釈し、批判を封じていった事例は枚挙にいとまがない。1930年代のヨーロッパも、形式上は選挙を経て権力が集中した。もちろん単純な比較はできない。しかし、「空気」が醸成され、異論が「空気を読まないもの」として周縁化されていく過程は、どこか既視感を伴う。

では、民衆はいつ蜂起するのか。
この問いもまた、どこかロマン主義的である。劇的な蜂起、革命的転換を期待する。しかし現実は、多くの場合、もっと緩慢で、もっと曖昧である。人は日々の生活に追われる。物価、子育て、仕事、人間関係。政治への違和感があっても、それが直ちに行動へと転化するわけではない。むしろ「自分一人が声を上げても」という無力感が、静かな同調を生む。
Z世代の感覚で言えば、「政治はダサい」という空気も確かにある。熱くなること自体がリスクで、タイパも悪い。だが一方で、SNSを通じて瞬時に情報が共有される時代でもある。かつてのように、テレビと新聞だけが世界を規定するわけではない。小さな違和感が、横につながる可能性もある。
私は、蜂起というよりも、「静かな編集」が鍵になるのではないかと思う。与えられた物語をそのまま受け取るのではなく、自分なりに再編集する力である。「信任」という言葉を聞いたとき、本当に何が信任されたのかを分解する。投票率はどうだったのか。争点は共有されていたのか。反対意見はどれだけ可視化されていたのか。
欺瞞が進む社会では、怒号よりも、問いが効く。「なぜそれが信任になるのか」と淡々と尋ね続けること。マスコミが追従するなら、別のメディアを育てること。既存政党が応えないなら、ローカルから組み替えること。自治とは、国家レベルの大事件だけでなく、足元の意思決定から始まる。
政治が虚偽に満ちていると感じるとき、私たちは二つの誘惑にさらされる。一つはシニシズム。「どうせ変わらない」と距離を置くこと。もう一つは純粋な怒り。「全部壊せ」と叫ぶこと。しかし、そのどちらも持続しない。持続するのは、地味な検証と対話である。

「怒り」を「設計」に変えるとき
騙す側が悪いのは当然である。だが、騙される構造を放置する社会もまた脆弱である。問題は個人の知性ではなく、情報環境と制度設計である。選挙制度、メディアの独立性、政治資金の透明性――構造を問い直さなければ、同じ物語は何度でも再演される。
虚偽と欺瞞が進むと感じる今こそ、「怒り」を「設計」に変えるときではないか。言葉の意味を取り戻し、構造を問い、選び直す力を育てること。
私たちは、無力な群衆でも、全知の主権者でもない。未完成の市民である。その自覚からしか、次の一歩は始まらないと信じる一人である。
<山口 達也>

