知事と市長のセット政治
大阪の政治を考えるとき、避けて通れない特徴がある。それは知事と市長の「セット政治」である。
かつて日本の地方政治では、知事と市長はそれぞれ独立した存在であった。府県と市町村は制度上の役割が異なり、政治的にも別の文脈で語られることが多かった。しかし大阪では、この関係が大きく変化した。
その転換点となったのが、現政権による政治モデルである。
現政権は、知事と市長を一体の政治主体として提示した。広域行政と基礎自治体行政を同じ改革物語の中に位置づけたのである。これは極めて戦略的であった。支持者にとっては分かりやすく、政策の整合性も保ちやすい。
象徴的だったのが、大阪市を廃止し特別区にすることで、大阪府と大阪市の統治構造を再編すること(いわゆる都構想)であった。広域と基礎自治体の関係を一体として設計し直すという発想は、政治的にも制度的にも大きな影響を与えた。
結果として、大阪の有権者の間には「知事と市長はセットで選ぶものだ」という政治文化が形成されたのである。
この構造は非常に強い。
首長選挙が二つあったとしても、有権者にとっては一つの物語として理解される。広域戦略と都市政策が同じ方向を向いているという安心感が生まれる。
「セット政治」というモデルの幻想
しかし、このモデルには大きな問題が含まれている。
最大の問題は、役割の違いが見えないことである。
知事の役割は本来、広域行政である。府全体の経済政策、交通インフラ、防災、産業戦略など、都市圏全体を見渡す視点が求められる。
一方、市長の役割は生活行政である。教育、福祉、住宅、地域コミュニティ。市民の日常に近い領域を扱う。
この二つは、スケールが異なる。
広域戦略は集中によって効率が高まる。しかし生活行政は分散によって機能する。小学校区、地域コミュニティ、商店街、マンション。生活は細かな単位で動いている。
ところが政治の物語が一体化すると、この違いが見えにくくなる。
知事と市長が同じ強さで同じ方向に進むことが期待される。しかし都市の運営は、それほど単純ではない。
ここで必要なのが、役割の再設計である。
知事は、広域戦略の責任者であるべきである。都市圏の経済、交通、防災など、大きなスケールの政策を担う。そしてその成果を数値で示す。政策が進んでいるのかどうかを可視化する。
一方、市長は生活行政の責任者である。市民生活に近い領域で、政策を実装する。教育や福祉だけではない。地域防災、住環境、コミュニティ。生活単位での政策を積み上げる。
知事は戦略を示す。
市長は生活を動かす。
この役割分担が明確になったとき、知事と市長の関係は対立でも従属でもなくなる。都市の異なるスケールを担うパートナーになる。
大阪の政治はこれまで、「誰が強いか」という問いで語られることが多かった。強い知事、強い市長、強い政党。しかし都市を動かすために必要なのは、単純な強さではない。
適切なスケールで意思決定が行われることである。
広域の戦略は広域で決める。
生活の運営は生活圏で決める。
この多層構造を設計することが、都市統治の本質である。
生活の運用は大阪の特別区ならできたのか
大阪市を廃止して特別区にすれば、まさしく生活行政は可能であったと、言う声はもちろんあるであろう。
しかし、東京都の特別区が東京都に占める予算の大きさに対して、大阪市を廃止して作ったであろう大阪府における「特別区」は、名前が同じでも中味は全く異なるしくみであった。


3度目を考える前に
大阪はこれまで、壊す強さによって前進してきた。既存政治の停滞を打破し、新しい政治文化を生み出した。しかし都市は永遠に戦い続けることはできない。
次に必要なのは、動かす強さである。
対立を作ることよりも、成果を積み上げること。
知事と市長がその役割を分担し、都市を動かしていく。
それが大阪政治の次の設計図ではないだろうか。
しかし残念なことに、2月の衆議院選と同時に行われた知事・市長選においても、役割分担どころか、大阪府知事主導で全て仕切られていた。
大阪市の生活圏への愛情も熱意も感じられないまま、選挙制度を弄ぶような選挙となった。
大阪市民はまだ強さを求めている。しかしその強さは、より生活に根ざした安定感なのである。
壊す強さから、安定感を感じられる強さへ。
戦う政治から、積む政治へ。
その転換をどう設計するか。
それが、これからの大阪政治に問われているのである。
少なくとも、副首都や3度目といった広域行政をより強くする話ではない。
<山口 達也>

