戦後、長男以外の就労可能な若者が集団就職で、農村のコミュニティからコミュニティ(共同体)に属さない都市部にやってきて、というストーリーから80年。
今やコミュニティ論は様々な形で語られているが、その俯瞰を考えてみたい。
本来は一体だった農村/都市/コミュニティ
かつての日本社会では、
農村=生活の場=仕事の場=コミュニティ
であった。
つまり「空間・暮らし・経済・関係性」がほぼ重なっていた。
しかし現代ではこの重なりが完全にほどけている。
- 働く場所:都市のオフィス、リモート、サテライト
- 暮らす場所:ベッドタウン、郊外、農村
- 所属するコミュニティ:オンライン、趣味、職場、地域の断片的つながり
この「重層性のズレ」が、現代の孤立感や、都市問題、農村の過疎、自治の弱体化の根源にあると感じている。
若い世代はこの“分断の風景”を最初から当たり前として生きてきたため、むしろ俯瞰した時に「これ、わざわざ分けて生きる必要あった?」という素朴な問いを持ちやすい。その視点は実際にとても正しいと思う。
都市は加速度、農村は蓄積、コミュニティは連続性
大まかに言えば、三者は違う時間軸の上にある。
●都市=高速で変わる
都市はつねに変化している。
ビルが建ち、テナントが入れ替わり、産業トレンドが移り変わる。
都市は“加速度”そのものだ。
●農村=ゆっくりと変わる
土地、自然、歴史、風習。
変わりにくいものを抱えているのが農村だ。
しかしその“ゆっくりさ”が現代では逆に価値になりつつある。
●コミュニティ=時代に関係なく必要な「連続性」
都市にも農村にもコミュニティはある。
問題は、それが「地域の線」に沿っているのか、「個人の興味」に沿っているのかが揺らいでいる点だ。
人は、変化の早さと遅さの間で、少しだけ“安定したつながり”を求める。
コミュニティはその安定の受け皿である。
3つのズレが生み出した「現代の不安」
俯瞰すると、農村と都市とコミュニティの“三角形”は、うまく閉じていない。
●都市が抱える不安
- 流動性が高い
- つながりが短期的
- 過集中による負担(住宅、働き方、孤独)
●農村が抱える不安
- 人が来ない
- 関係の固定化
- 維持できないスケール
●コミュニティが抱える不安
- 役割の形骸化(町会・自治会)
- オンライン化で「住所に縛られないつながり」が増え、地域のコミュニティが希薄化
- しかしオンラインは“最後のセーフティネット”までは担えない
どれも別々の問題のように見えるが、実は一つの構造的な問題ではないか。
都市だけを語っても、農村だけを救っても、コミュニティだけを強くしても解決しない。現代の課題は、三者をつなぐ“ハイブリッド空間”をどう設計するかにかかっているとプロットする。
私の実感としての「三者の交点」
●① 農村的な「スローさ」を都市にも持ち込むこと
たとえば街の中のコミュニティスペース、公共空間、古民家再生。
都市のスピードに“間”をつくる取り組みは、Z世代にとっても居心地が良い。
●② 都市的な「選択肢の多さ」を農村へ持ち込むこと
農村に求められているのは「不便の解消」ではなく、「生き方の選択肢」である。
ワーケーション、分散型ライフ、2地域居住。
この方向はすでに時代が後押ししている。
●③ コミュニティを“制度”ではなく“関係性のデザイン”として
町会や自治会は、「小さな参加」「ゆるいつながり」「テーマ型コミュニティ」
として重ねていくほうが持続しやすい。
今の若い世代は「自治会=古い」というよりも、「内容が自分にフィットしない」という理由が大きい。
地域コミュニティやボランティアに関心のある若い世代は確実に一定するいるからだ。
フィットすれば活動に参加する可能性は十分ある。つまり、関係性のデザイン次第で参加率は変わる。
三角形を閉じる「設計」が、次の社会づくりの核心
農村・都市・コミュニティを俯瞰すると、見えてくるのは実は単純な構図だ。
- 都市:スピード
- 農村:スロー
- コミュニティ:つながり
この3つがばらばらに働いている限り、社会のどこかで必ず「ひずみ」が生まれる。
逆に言うなら、
3つを重ね合わせる“デザイン”ができれば、地域社会はまだまだ変われる。進化する自治のヒントがここに転がっている。
<山口 達也>


