市内有数のベッドタウンとなった東淀川区にいまも根付く水の歴史

市内有数のベッドタウンとなった東淀川区にいまも根付く水の歴史
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発展の歴史から想起する来るべき大阪の姿

 ucoでは、大阪の未来を描くベースとして、大阪市のたどってきた道のりを再検証する企画を進めています。その一つが大阪市をかたちづくってきた歴史を、その土地の成り立ちと経済、文化など様々な要素を持った「区」から見つめ直そうという試みです。
 これは江戸時代の大坂の中心地であった「大坂三郷」を基礎としながらも、3つではなく「北区」・「東区」・「南区」・「西区」の4つの区から始まり、近代化、人口爆発、そして戦後復興を経て現在の24区となった経過を「区」の成長(=大阪市の成長)という視点から描かれた「古地図でたどる大阪24区の履歴書」(本渡 章 著)に触発されたテーマです。古地図をベースに一つ一つの区を歩きながら、歴史のその先にある大阪のかたちを思い描きます。

 それぞれの時代の要請で産業や文化が興り、人々が集まり、一つの集積としてある現在。この先に進むべき羅針盤の針先はどこを目指すべきなのか。
 明治になってすぐ、4つの区の誕生により、大阪の市街地は、港を有する西区(現在の港区、大正区、此花区を含む)が産業を牽引することで大きく発展。その後、鉄鋼業や紡績などの工場群が大阪港を中心に発達し、大正期には東洋のマンチェスターと呼ばれるほどの隆盛を達成した大阪。市の中心から西へと向かったベクトルは、弧を描くように北へと向かい、戦後の大阪は西淀川区、東淀川区をという淀川の北側が中心となってリードし、発展していく。

市内有数のベッドタウンとなった東淀川区

 1945(昭和20)年3月から7月にかけて大阪のまちはアメリカ軍の大空襲を受け、市街地の多くが被災し焼失。とくに湾岸の工業地の被害は大きかった。また人口減少も激しく、1945(昭和20)年11月の人口調査では、110万2,959人と、最盛期だった325万人からほぼ1/3となった。東淀川区は、第3次大阪空襲にあたる6月7日、15日、27日の3回にわたる空襲で、崇禅寺、柴島、淡路周辺などの区西部を中心に大きな被害が出た。
 この時期の東淀川区は、1943(昭和18)年に淀川の南側が切り離され「大淀区」となゆり、現在の大淀区エリアを含む面積26.1平方キロと市内最大の区となっていた。
1950年当時の東淀川区のエリア

出典[ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター「歴史的行政区域データセットβ版」
国土交通省「国土数値情報 行政区域データ」

https://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/27114A1968.html
 東海道新幹線の開業を控えた1961(昭和36)年、新大阪駅周辺と新大阪駅と市内中心部とのアクセス確保のため、幹線道路の整備や土地区画整理事業が進められた。高度経済成長期にあたるこの頃には、東淀川区は工業製品出荷額で22区中第1位(1371億円)、その他、金属、機械、化学、紡績などの分野でも工場立地が進んだ。同時に、そこで働く人やモノの流通も盛んになり、小売商店数が第2位、農家の件数も第2位と産業、流通、生活インフラなどを支える重要な地域となった。

 舟運や浄水場の設置にみるように、大正期及び戦前・戦後の東淀川区の発達は、淀川の恵みが大きく寄与していた。水運の発達は古代より記録があり、水路と陸路の各街道を繋ぐ交通の要衝となっていたことがわかる。
 現在も地名として残る江口は、平安時代に京都を船でつなぐ拠点でもあり、熊野詣や高野山に参詣した貴族たちがその道行の遊興の地となり、にぎわったという。
 現在東淀川区に残る「中島」の地名やスポット名は、大阪市に編入された「中島村」や「北中島村」に由来する。区名と決定までには、「中島区」という案もあったようだ。中島には水にまつわる大工事として「中島大水道」という、淡路(新太郎松樋)から西淀川区西島(福村吐口樋/大阪湾)に至る約9.2キロの水路建設があり、現在も顕彰碑が残っている。
 江戸時代、この一帯は新田開発も盛んとなったが、繰り返される洪水により、田畑の水没で村人の困窮も切迫したものがあった。そのため排水路の開削を幕府に何度も嘆願したところ、排水路設置の許可が出ものの「開削費用は、すべて村人負担」とされた。費用の幕府負担を嘆願したところ、許可が取り消された。16771(延宝5)年、たまりかねた村人は、無許可のまま工事を開始。老若男女を問わず村総出で工事に参加し、わずか28日間(50日間という説もある)で深さ約90cm、長さ約9.2KBの排水路を完成させたという。工事を知った幕府が工事中断と出頭を命じたが、首謀した3軒の庄屋が抗議の自決をした。
 この水路は、1699(明治32)年の淀川大改修まで機能を失わず、地域に多大な恩恵をもたらし、その後東海道新幹線の工事で埋め立てられた。現在、新幹線高架下に顕彰碑が建っている。
新幹線高架下にある顕彰碑
 中島の地域には、天平年間(724~748年)に法相宗の行基が創建したとされる「崇禅寺」がある。(浄瑠璃「敵討崇禅寺馬場」の舞台などで知られる曹洞宗寺院である。
 1441(嘉吉元)年、室町幕府6代将軍足利義教が、播磨守護赤松満祐に京都で殺害され、義教公の首を当寺に葬った。翌年、摂津守護細川持賢の寄進をうけ、足利義教公ならびに細川家の菩堤寺として再興されたという。そのため、義教の首塚や細川忠興の妻・細川ガラシャの墓などがある。伽藍は再興以来、たびたび戦火に見舞われ、慶安年間(1648~1651年)に再建されたものの、1945年6月7日の大阪大空襲により焼失した。現在の伽藍は、1989(平成元)年に再建されたもので、本堂は入母屋造、客殿は正倉院をモデルに建立された。この空襲で亡くなった518人の遺体がお寺に集められたことから、戦災犠牲者慰霊塔がある。
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 また1869(明治2)年、大阪府の一部(旧摂津国8郡)が分割され摂津県が設置された。県庁所在地として西成郡山口村崇禅寺馬場の地が選ばれたが、庁舎は建設されず、崇禅寺の伽藍の一部を仮庁舎とした。3カ月後に豊崎県と改称され、さらに数カ月後に兵庫県に併合された。そのため、崇禅寺の門前には「摂津県・豊崎県県庁所在地跡」顕彰碑が建っている。
 隣接する「中島惣社」は、7世紀中頃五穀豊穣を祈念し創建されたが、大坂夏の陣(1615年)の兵火で焼失。江戸期に復興後は、1968(明治元)年まで2万坪近い広大な神域を持っており、崇禅寺から続く一帯は崇禅寺馬場と呼ばれていた。
大正14年(1925)に大阪市は、市域拡大を行い「大大阪」として歩み始めました。この時の13区の中でも、東淀川区は淀川区、大淀区(現在の北区)を含む巨大区でした。
古くから水運の要所として発展したこのエリアは、近代以降も淀川沿いという地の利を生かして発展を遂げました。
戦後は、空襲で被害を受けた大正区などの工業地帯に代わって、大阪の産業を牽引し、商業地域や居住エリアとしても隆盛していきます。淀川の恵みを受けて発達を遂げた東淀川区を古地図の研究者で作家の本渡章さんと散策します。

案内・本渡章さん(作家・古地図研究者)
2024年7月20日(土) 16:00~18:30
終了後本渡章さんを囲んで懇親会を行います。(費用別途)
参加費 3,000円(税込) 学生 1,500円(税込)
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