区150年。現在の大阪市は24の行政区で構成されている。大阪の近代は、江戸から明治に代わって間もなくの1879(明治12)年に4つの区の誕生をもってはじまるが、この時点で大阪市はまだない。その後、区を統括する自治体として大阪市がはじまり、近代化、工業化共に人口増大と市域拡大を重ねて、新たな区が誕生していき、現在の大阪市をかたちづくってきた。
区の成り立ちは一通りではなく、時代や発展のしかたによりさまざまな個性を持ち、街並みをかたちづくる景観も雰囲気も異なり、それぞれの風情を持っている。現在のかたちになったのには、それぞれの歴史と理由がある。しかし、今後時代が進んでいくとき、大阪のまちは現在の形を変えざるを得ないのだろうと思う。少子化、高齢化が進み、人口減少も進んでいったとき、コンパクト化や合区なども政策の話題として上がってくることもあるのではないか。
新たな区ができていく過程で、その区の性格やの町のあり方はかたちづくられていき、その街に人々は息づいている。そうした特性や個性をもった区の集合体でもある大阪市には、どのような未来が描けるだろうか。
発展の歴史から想起する来るべき大阪の姿
ucoでは、大阪の未来を描くベースとして、大阪市のたどってきた道のりを再検証する企画を進めています。その一つが大阪市をかたちづくってきた歴史を、その土地の成り立ちと経済、文化など様々な要素を持った「区」から見つめ直そうという試みです。
これは江戸時代の大坂の中心地であった「大坂三郷」を基礎としながらも、3つではなく「北区」・「東区」・「南区」・「西区」の4つの区から始まり、近代化、人口爆発、そして戦後復興を経て現在の24区となった経過を「区」の成長(=大阪市の成長)という視点から描かれた「古地図でたどる大阪24区の履歴書」(本渡 章 著)に触発されたテーマです。
それぞれの時代の要請で産業や文化が興り、人々が集まり、一つの集積としてある現在。この先に進むべき羅針盤の針先はどこを目指すべきなのか。古地図をベースに一つ一つの区を歩きながら、歴史のその先にある大阪のかたちを妄想しませんか。
目次
大大阪時代に生まれた巨大区「東淀川区」
東淀川区の誕生は、大正時代「大大阪」と呼ばれる、急速な発展・発達をとげ、第2次市域拡大が行われた1925(大正14)年。西成郡中津・豊崎・西中島・神津の各町と大道・新庄・中島・北中島の各村が大阪市に編入されたもので、当初は淀川区と大淀区(現在の北区)を含む面積約29.03平方キロ、人口約14万6000人の巨大な区としてスタートする。南は淀川両岸を有し、北に神崎川が流れるなど、水の恵みを得ながらも、河川の氾濫により困窮するなど、水とともに発展してきた歴史を持つ。
大大阪明細地圖に発足時の東淀川区の対象エリアをマーキング
大阪毎日新聞社 監輯, 荒木利一郎 編『大大阪明細地圖 最新實測 : 大大阪地域擴大記念附録』,大阪毎日新聞社,1925.4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/937026
江戸時代には、農民が自力で大規模な河川改修のための土木工事を行った記録がある。1678(延宝6)年、現在の新太郎松碑から福町吐口樋(東淀川区淡路~西淀川区福町)全長9.5km、幅1.9mの大水道がそれで、1899(明治32)年の淀川大改修まで利用され、地域に多大な恩恵をもたらしたという。新幹線高架下に顕彰碑が建っている。
東淀川区が誕生する以前より、この地域は水道の水源地として重要な拠点となっていたり、早くから鉄道が開通するなど、発展の基盤ができ始めていた。
1914(大正3)年3月、当時東洋一といわれた「柴島水源地」が完成した。その給水能力は、15万1800立方メートルで、大阪の工業化、人口増を支える重要な拠点として発達していくことになる。そして、現在も柴島浄水場として大阪の水道、水源の要となっている。浄水場の西側にある水道記念館は、1914年(大正3年)「送水ポンプ場」の建物として建てられたもので、明治・大正期に活躍した建築家宗兵蔵(そうへいぞう)の設計によるレンガ造りの外観やアーチ形のファサードなど、貴重な公共財産である。大阪では最も古い水道施設であり、ポンプ場としては、1986年まで稼働していた。
水道記念館は、展示施設として開放されている。開館は、土曜日、日曜日、祝日の午前10時~午後4時。(12月~2月を除く) 入場無料
詳細は https://suido-kinenkan.jp/
← 柴島浄水場旧第1配水ポンプ場(現水道記念館)
(出典:大阪市 https://www.city.osaka.lg.jp/higashiyodogawa/page/0000294550.html#suidoukinenkan)
柴島浄水場が大阪の水道の要として稼働し始めてから7年後、1921(大正10)年、北大阪電気鉄道が十三~豊津間で開業し、区間の駅として「淡路駅」が誕生。(現在の阪急千里線のルーツ)その半年後には千里山まで延伸した。この鉄道は、千里丘陵の宅地開発と霊園(公園墓地)の設置計画の一環として敷設されたもので、大阪市街に接続ができるよう阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)十三駅へ乗り入れを行った。これに続き、1924(大正13)年には淡路~新庄間が、1925(大正14)年には淡路~天六間が開通し、農村地帯から市街地へと変わるきっかけとなっていった。
それから4年後、大阪市が第二次市域拡張を行い、西成郡中島村や北中島村、神津町、中津町など3町・6村を編入することで東淀川区が設置されることとなった。
明治・大正期は、淀川沿いを中心にさまざまに工場群が立ち並んでいく。生産資材や製品の運搬に淀川が利用され、大阪港有する湾岸と、淀川沿岸の東・西の両淀川地域は水運の利を生かして発展していく。
市街地、商業地として発展し工業化も進む
昭和に入ると、淡路駅周辺では宅地開発が進み、つぎつぎと商店街も設立されるようになった。1934(昭和9)年、駅の東側に商栄会(東淡路商店街の前身)が設立された。また1940(昭和15年)には西側に商経会(淡路本通商店街の前身)もできるなど、市街地化の拡がりにあわせて商業地としても発展していくこととなった。
しかし、本格的に東淀川区が発展するのは、戦後復興の時期から。大正から昭和へと時代が変わり、中国進出などで日本は海外進出を進めていく中、1941(昭和16)年12月の真珠湾攻撃をもって太平洋戦争へと突入した。そして1945(昭和20)年の大阪大空襲によって、東淡路・西淡路・淡路地域なども被災した。
大阪での空襲被害は、市街中心部から港湾部に集中し、此花区、大正区、港区は甚大な被害となった。東淀川区は、湾岸地域の復興にさきがけ、大阪の工業を牽引していくこととなる。
1950年代後半以降の高度経済成長時代に入ると、区画整理と共に幹線道路や豊里大橋、長柄バイパスなどの道路整備が進む一方、自動車工業や家電の隆盛、住宅ブームなどで様ざまな工場立地が進んでいく。特に、金属・機械・電機・化学・紡績などが主力産業となり、雇用とあわせて人口増加、それに伴う小売商店の増加と、鉱業、商業の両面で大阪経済をリードしていくことになった。
大正14年(1925)に大阪市は、市域拡大を行い「大大阪」として歩み始めました。この時の13区の中でも、東淀川区は淀川区、大淀区(現在の北区)を含む巨大区でした。
古くから水運の要所として発展したこのエリアは、近代以降も淀川沿いという地の利を生かして発展を遂げました。
戦後は、空襲で被害を受けた大正区などの工業地帯に代わって、大阪の産業を牽引し、商業地域や居住エリアとしても隆盛していきます。淀川の恵みを受けて発達を遂げた東淀川区を古地図の研究者で作家の本渡章さんと散策します。
案内・本渡章さん(作家・古地図研究者)
2024年7月20日(土) 16:00~18:30
終了後本渡章さんを囲んで懇親会を行います。(費用別途)
参加費 3,000円(税込) 学生 1,500円(税込)