政治に声が届かないと感じるのはなぜか
多くの人が、「政治に何を言っても無駄だ」と感じている。日々の暮らしと政治が結びついていると実感できる場面は少なく、政策決定の場に市民の意見が反映されている気配もない。
それでも、私たちはただ無関心になっているわけではない。本当に困ったとき、災害が起きたとき、子どもや高齢者を守りたいと思うとき、「誰かが何とかしてくれないか」と心の中で叫んでいる。その“誰か”は、本来、政治や行政であるはずだった。
けれど、なぜこんなにも遠く感じるのだろう。信頼はいつ、どこで失われたのだろうか。そして、それを再び築くことは不可能なのだろうか。
自治という言葉に、私たちはどう向き合うべきか
「自治」という言葉は、どこか堅苦しく、行政用語のように聞こえるかもしれない。しかし本来は、自分たちの暮らしを自分たちで形づくることを意味している。
では今、その「自治」は誰の手にあるのだろうか。地域のことは一部の有志や専門家に任せきりになっていないだろうか。私たちは、知らない間に「まちの主語」から外れてしまっていないだろうか。
行政の施策が一方的に進められ、住民は後から説明を受けるだけ──そんな構造に慣れてしまったのかもしれない。それでも、「もっとこうだったらいいのに」「こうしたほうが安心だ」そう感じる瞬間があるならば、私たちはまだ「まちづくり」に関心があるということではないか。
参加することの意味は何なのか
よく「住民参加」や「共創」といった言葉が使われる。しかし、参加するという行為には、実際には大きなハードルがある。仕事や育児に追われ、時間の余裕がない中で、誰がその場に足を運べるのか。
また、「こんなことを言ってもいいのか」「場違いではないか」と感じてしまう心理的な壁もある。声を上げることは、勇気が必要で、孤独を感じることでもある。
それでも、ほんの小さな場でも、誰かが耳を傾けてくれる経験があれば、人はもう一度語ろうと思える。問いを持つこと、疑問を言葉にすること、それ自体が社会を変える一歩であるのかもしれない。
小さな疑問が自治へのフック(きっかけ)になる
この時代、正解のある問いなどほとんど存在しない。むしろ、大切なのは問いそのものを持ち続けることだ。
「まちのことを決めるのは誰か」
「私はこの地域で、何を担うことができるのか」
「誰と一緒に、何を話し合いたいのか」
その問いが、すぐに行動や制度の変化につながるとは限らない。だが、問いがなければ社会は変わらない。答えを急がず、まずは自分の中にある小さな疑問を拾い上げてみること。それが、「自治」という営みの始まりなのである。