江戸時代、広大な新田で栄えた北河内の面影

コラム
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江戸時代、大坂の東部で広大な新田開発が行われた。開発を行ったのは、東本願寺難波別院や大阪の商人たち。いまは広大だった新田の姿はないが、新田開発の歴史の面影を学ぶまちあるきに参加した。
大東市は、大阪市の北東に隣接し大阪府下では「北河内」という地域にある。総人口114,887人、京都から和歌山に連なる東高野街道や、大阪から奈良に至る古堤街道など、中世から近世の交通の要衝でもあり、平安時代より続く多くの歴史を抱えている。このまちあるきは「寝屋川・恩智川流域環境フォーラム」という寝屋川・恩智川流域を活動拠点としている団体で、流域にある歴史スポットや、河川にまつわるくらしや防災などに焦点を当てたまちあるきを行っている。今回は平野屋新田会所跡を中心に「新田開発と水路に見る江戸時代の大東市のすがた」を学ぶというツアーだ。

江戸中期に生まれた広大な新田は北河内の風景が変わる

年配の方には大東市というより、野崎詣りで有名な野崎観音のある町、という方がピンとくるかもしれない。戦国時代、その野崎観音のある飯森山のふもとに深野池(ふこのいけ)という広大な池があった。当時この一帯を三好長慶が治めており、この深野池には隠れキリシタンにまつわる物語もあるのだが、今回は新田の話。江戸の中期・1704年(宝永元年)、たびたび氾濫を起こし甚大な被害をもたらしていた大和川の流れを人工的に変える大工事を幕府が始めた。それまでの南から北への流れを西へと付け替え大阪湾まで流すというもの。この付け替えにより、河内一帯にあった深野池や新開池などが干し上がったことをきっかけに、大規模な新田開発が行われた。深野池の跡地には、甲子園球場約85個分とも言われる新田が生まれた。新田開発には、東本願寺難波別院や大坂の商人などが関わっており、新田の所有や管理も大阪の商人たちで行われていた。新田は5つのエリアに分かれていて、深野南新田(平野屋・谷川・南新田地区)と河内屋南新田(東大阪市元町地区)は大坂の両替商・平野屋又右衛門の所有地となり、新田の管理・運営するために平野屋新田会所が設置された。
戦国時代の深野池と開発された新田
戦国時代の深野池の絵図(寝屋川・恩智川流域環境フォーラムの画像による)
北河内で開発された新田(寝屋川・恩智川流域環境フォーラムの画像による)
今回のツアーでは、この新田会所跡を中心に、当時使われていた民具や宝物、田んぼに水を引いたり荷を運ぶための水路や井路(いじ・農業用水などを供給するための人工的な水路)、また今も現存する水の流れを調整する樋などを現地を訪ね歩く予定。平野屋新田会所は歴史上重要な施設だったが、宅地開発のためにすでに解体されたが、大東市は公有地部分を市史跡に指定し、調査も行われている。発掘調査を行っている大東市生涯学習課の佐々木拓哉さんを講師に、また平野屋新田会所市民サポーター会議の林田惠子さんに案内していただいた。

農具の一大生産地だった北河内を今に伝える収蔵品

JR学研都市線の野崎駅近くにある「歴史民俗資料館」からスタート。佐々木拓哉さんから平野屋新田会所について説明を受け、会所内に祀られていた坐摩神社に残されていた宝物の、「二十四孝」( 中国古来の親孝行をした24人)のひとつ唐夫人絵馬や地車の宮入りの様子を描いた絵馬などの実物を見せていただいた。その後、一般には立ち入れない収蔵庫で、消火道具の龍吐水(りゅうとすい)や踏車(ふみぐるま)といった会所で使われていた民具や農具を見せていただいた。
当時の北河内は農具の一大生産地で、「河内」の刻印がされた木造民具・農具は各地で見つかっているそうだ。
龍吐水
消火道具の龍吐水(りゅうとすい)
収蔵民具の一つ、踏車について説明される佐々木拓哉さん
踏車に記された刻印。河内、諸福、大仁とあり、いまの大東市諸福にあった製造者と思われる

舟運と水利、新田で繰り広げられたくらしが偲ばれる

資料館を後にして、まちあるきの出発。市民サポーター会議の林田惠子さんの案内で、まず野崎駅近くにある観音浜跡に立ち寄った。江戸時代から昭和初期までこの一帯の移動手段は水路だった。特に江戸時代、野崎詣りが大阪の観光地として発達したころは、八軒家浜から屋形船で寝屋川を遡り舟を渡りついで観音浜で降り、ここから慈眼寺までお参りしたという。今回は当時の川や水路、そして井路の跡やその面影をイメージしながら新田像やまちの風景を追っていった。

観音浜から一路西へ、現在の谷川中学校の西側で現存する「谷川樋」に向かう。大東市には、石造りの樋が現存するという。今回3つの樋を見ていくのだが、3つそれぞれ特徴が異なっており、その水路のあり方や使い方によって形状も違っている。続いて「かみなり樋門」を訪ねる。この樋門、水路に水をためる機能を果たしていて、ふだんは水位が高いが、舟を通すときは水位を下げて舟が通れるようにする調整も行っていたとのこと。この付近は雷がよく落ちることからこの名がついたらしい。最後は、「どんばの伏越樋(どんばのふせこしひ)」、平野屋新田会所の北東側、鍋田川の下川に作られた樋門。水利権の関係から、新田に隣接する鍋田川から直接水を引くことができなかったため、別の川から井路を引きこの樋を通して「四間井路」へと水を通しいた。四間というから、およそ7.2mの大きな井路が会所脇を流すようにしていた。これは現在の銭屋川だという。この「どんば」という名は、この樋の近くに正月飾りやお札を燃やす新年の行事「とんど」を行うところがあったことから「とんど」と呼ばれていたものがなまったらしい。それにしても、当時の水利についてはかくも厳しかったことが伺える。広大な新田ともなれば多くの水が必要だったこともあり、地元民にとっては防衛せざるを得なかったのかもしれない。
かみなり樋門
かみなり樋門 解説される林田さんと参加者
かみなり樋門
かみなり樋門
いよいよ、平野屋新田会所跡に到着。会所の西側を銭屋川が流れ、船着き場を備えた土蔵が立っていた、土蔵跡を中心に林田さんに解説していただいた。千石蔵と呼ばれる米を貯蔵する土蔵の土台跡で、東西棟行約22m、南北梁間約6mの巨大な土蔵が立っていた。この一角は会所全体のほんの一部と考えると、当時非常に栄えていただろうと思われる。ただ、会所の運営は困難でもあったようで、およそ100年間の間に3回所有者が変わっていっており、1823年(文政7年)に銭屋(高松)長左衛門が所有者となり、昭和の農地改革まで高松家が運営していた。 
坐摩神社は、もともとは会所の守り神として大阪の坐摩(イカスリ)神社から勧進して建てられたものだったという。そのため会所の一角にあった。銭屋が新田を引き継いで以降、地域に開放され、近隣の氏神として祀られるようになったという。
坐摩神社前で解説される林田さんと参加者
大東市と大阪市は寝屋川で結ばれており、水運、舟運が主流だった時代には、強い結びつきがあった土地柄。経済や文化の繁栄は、河川の流域に沿って生まれ、発展してきたという歴史がある。農村やまちとの連関や新田の開発や運営にもみられるように、大坂の商人が近隣の農地にかかわり、観光地にもなっていった。鉄道や自動車が主流である現代ではあるが、積み重なってきた歴史をもって、いま一度新しい関係性が築ければ良いな、と思う。
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