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今回の衆議院選挙を眺めながら、どうにも言語化しづらい違和感が胸に残っている。
いくつもの政党が、あまりに強引で荒っぽい手法をとる高市首相をディスり、攻撃し、批判した。だが、その批判は広がるどころか、どこか空転しているように見えた。むしろ逆効果にすらなっている気配がある。
この現象をどう捉えるべきか。
私はいまの空気を岡田斗司夫氏が提唱する「ホワイト社会」という言葉で仮に整理してみたい。
批判が届かない社会
かつて政治は、対立と批判の場であった。
テーゼとアンチテーゼがぶつかり、弁証法的に社会が前進する、というイメージが共有されていた。批判は前進のためのエネルギーであり、対立は成長の証であった。
しかし、いまはどうか。
強い言葉で批判すればするほど、「感じが悪い」と受け取られ、言った側の評価が下がる。内容よりもトーンが重視される。正しいかどうかよりも、優しいかどうかが先に見られる。
これは単なる「民度の低下」ではない。むしろ逆である。社会が成熟し、暴力や怒号を嫌うようになった結果とも言える。
だがその成熟は、同時に「対立の忌避」を生み出している。
ポジティブであることの強制
この空気は政治だけではない。
たとえばコルティナオリンピックを見ていて感じた違和感である。敗れた選手が、涙をこらえながらも「前向きに次を目指します」と語る。その姿勢自体は美しい。しかし、どの選手も、どの場面も、同じトーンでポジティブを語る様子に、どこか息苦しさを覚える。
負けたならもっと悔しいと言ってもいいはずである。
怒りや悔恨や不満を、もう少し生々しく語ってもいいはずである。
だが、メディア空間では「ポジティブであること」が半ば義務化している。ネガティブな感情は、空気を壊すものとして処理される。
政治も同じ構造に入ってはいまいか。
ホワイト社会の構造
岡田斗司夫氏が提唱する「ホワイト社会」とは何か。
それは「善意で満たされた空間」である。
差別はいけない。
怒鳴ってはいけない。
強く言ってはいけない。
批判は優しく包むべきである。
すべて正論である。だが、その正論が積み重なったとき、社会は「強い否定」を扱えなくなる。
つまり「ホワイト」でない限り、排除されていく世界観だ。
結果どうなるか。
強いリーダーが強引な手法をとっても、真正面から激しく批判することが難しくなる。なぜなら、激しく批判する行為そのものが「感じ悪い」と評価されてしまうからである。
そして強いリーダーは、こう言う。
「私は前向きにやっているだけだ」
その言葉が、ホワイト社会の空気と共鳴してしまう。
ディスの逆効果
今回の選挙でも、野党側は「強引だ」「危険だ」「乱暴だ」と繰り返した。だが有権者の一部には、それが「ネガティブな攻撃」に映った可能性がある。
ホワイト社会では、攻撃は嫌われる。
たとえその攻撃が正当であってもである。
だからこそ、ディスは逆効果になる。
「また批判ばかりだ」と受け止められ、「前向きなビジョンを語らない人たち」という印象に変換される。
これは政策論の勝敗ではない。空気の勝敗である。
弁証法が止まるとき
私は、批判や対立を無条件に肯定したいわけではない。
しかし、弁証法的発展――対立を通じた成熟――が止まることには強い危機感を覚える。
異論をぶつけることがタブーになれば、社会は停滞する。
違和感を言語化する人が減れば、構造は固定化する。
ホワイト社会は、表面的には優しい。
だが、深部では議論を凍結させる危険をはらむ。
Z世代的感覚との接点
ここで重要なのは、若い世代の感覚である。
Z世代は、対立よりも共感を重視する。炎上を嫌い、角を立てない言い方を選ぶ。それは賢さであり、生存戦略でもある。
だが、その感覚が政治全体を覆ったとき、社会は「波風を立てないこと」が最優先になる。
私はそれを否定したくはない。
むしろ共感文化の成熟は尊いものである。
しかし、共感と批判は両立できないのか。
優しさと鋭さは同居できないのか。
そこに、次の設計課題がある。
批判の再設計
では、どうすればよいのか。
単にトーンを下げればよいのではない。
怒りを封じればよいのでもない。
必要なのは「人格ではなく構造を批判する」言語である。
誰かをディスるのではなく、仕組みの問題を可視化する。
敵を作るのではなく、問いを立てる。
ホワイト社会において機能する批判とは、攻撃ではなく「静かな違和感の提示」なのかもしれない。
静かな革命の可能性
強い言葉が嫌われる時代に、強い変化をどう起こすか。
それは大声ではなく、設計である。
怒号ではなく、構造の書き換えである。
選挙も同じであろう。
「許せない」と叫ぶよりも、「この仕組みはこう変えられる」と具体を示すほうが空気に馴染む。
ホワイト社会は、激しい革命を拒む。
だが、静かな革命を拒むとは限らない。
私はいま、社会は対立を超えて成熟するのか、それとも対立を避けて停滞するのか、その分岐点に立っているように感じている。
優しさを失わずに、批判を取り戻せるか。
共感を守りながら、構造を問い直せるか。
今回の衆議院選挙は、そのリトマス紙であったのではないか。
そして問いは続く。
私たちは、本当に「白い社会」を望んでいるのか。
それとも、色を失った社会に、ただ慣れてしまっただけなのか。
<山口 達也>


