M1グランプリとホワイト社会

コラム
この記事は約3分で読めます。
Image

今回のM1グランプリを「とても優しい大会だった」と感じた人は多いだろう。
ドツキは消え、露骨な上下関係はいなされ、誰かを傷つける笑いは慎重に避けられた。そして、その帰結として「たくろう」が優勝した。この結果自体は、正直に言って、本当にうれしい。よくぞここまで来た、と胸が熱くなる。

だが同時に、心配性のせいか、どこかで手放しに喜びきれない感覚が残る。
その違和感の正体を言語化するために、「優しい社会」と「ホワイト社会」とを、あえて切り分けて比較してみたい。

優しい社会とは何か

優しい社会とは、本来、弱さが可視化され、語ることを許される社会である。
失敗してもいい。取りこぼしてもいい。立場の弱い側が声を上げても、すぐには切り捨てられない。笑いにおいても、それは「自分も含めて笑われる」余地が残されている状態だ。

今回のM1グランプリで多く見られた共感型の漫才は、確かにこの優しさを体現していた。
観客は笑いながら、「これは自分の話でもある」と感じる。そこには連帯があり、温度がある。

ここまでは、文句のつけようがない。

ホワイト社会の怖さ

しかし、私の師匠のひとりである岡田斗司夫が語る「ホワイト社会」は、優しさとよく似た顔をしながら、まったく別の性質を持つ。

ホワイト社会とは、誰も傷つけないことが至上命題になりすぎた社会である。
暴力や差別だけでなく、「不快」「誤解される可能性」「炎上の芽」そのものが、過剰に排除されていく。

その結果、何が起こるか。

  • 誰も殴らないが、誰も本音を言わない
  • 誰も傷つけないが、誰も踏み込まない
  • 表面は優しいが、ズレた人間は静かに排除される

これは、かつての乱暴な社会とは別の意味で、かなり怖い。

漫才から消えた「衝突」

ドツキ漫才が消えたこと自体は、時代の必然だろう。
だが問題は、ドツキだけでなく「衝突」そのものが消えかけている点にある。

衝突とは、必ずしも暴力ではない。
価値観のズレ、理解不能な他者、笑えない違和感。
それらを無理やり笑いに変換するのが、漫才の最も危険で、最も創造的な部分だった。

ホワイト社会では、この「危険な領域」そのものに立ち入ることが躊躇される。
安全で、清潔で、誰にも文句を言われない笑いだけが、評価されやすくなる。

「たくろう」の優勝をどう受け止めるか

だからこそ、今回の「たくろう」の優勝は、二重の意味を持つ。

一つは、
共感と観察だけで、ここまでの高みに到達できるという希望。

もう一つは、
このタイプの笑いしか、もう上に行けなくなっているのではないかという不安だ。

彼らが悪いわけでは、もちろんない。むしろ逆だ。
「この時代に最も適応した才能」が、正当に評価された結果なのだ。

だからこそ、これは祝福であると同時に、警告でもある。

優しさを守るために、何を失っているのか

優しい社会は守るべきだ。
だが、ホワイト社会に無自覚に移行すると、私たちは「不器用な表現」や「未整理の怒り」や「笑えない違和感」を、すべて切り捨ててしまう。

笑いが、
「正しい感情」
「正しい距離感」
「正しい態度」
だけで構成されるようになったとき、それは本当に豊かな文化と言えるのだろうか。

今回のM1グランプリは、とても穏やかに感じたのは間違いない。
しかし同時に、なにか整いすぎていたように感じる。

だから私は、この結果を祝福しながら、少しだけ立ち止まりたい。
この優しさは、どこまでが希望で、どこからが息苦しさなのか。
それを考え続けること自体が、たぶん、今の社会にとって必要な態度なのだと思う。

<山口 達也>

ucoの活動をサポートしてみませんか

    【ucoサポートのお願い】
    ucoは、大阪の地域行政の課題やくらしの情報を発信し共有するコミュニティです。住民参加の行政でなく、住民の自治で地域を担い、住民の意思や意見が反映される「進化した自治」による行政とよって、大阪の現状をより良くしたいと願っています。 ucoは合同会社ですが、広告収入を一切受け取らず、特定の支援団体もありません。サポーターとなってucoの活動を支えてください。いただいたご支援は取材活動、情報発信のために大切に使わせていただきます。 またサポーターとしてucoといっしょに進化する自治を実現しませんか。<ucoをサポートしてくださいのページへ>

    シェアする
    タイトルとURLをコピーしました