
今回のM1グランプリを「とても優しい大会だった」と感じた人は多いだろう。
ドツキは消え、露骨な上下関係はいなされ、誰かを傷つける笑いは慎重に避けられた。そして、その帰結として「たくろう」が優勝した。この結果自体は、正直に言って、本当にうれしい。よくぞここまで来た、と胸が熱くなる。
だが同時に、心配性のせいか、どこかで手放しに喜びきれない感覚が残る。
その違和感の正体を言語化するために、「優しい社会」と「ホワイト社会」とを、あえて切り分けて比較してみたい。
優しい社会とは何か
優しい社会とは、本来、弱さが可視化され、語ることを許される社会である。
失敗してもいい。取りこぼしてもいい。立場の弱い側が声を上げても、すぐには切り捨てられない。笑いにおいても、それは「自分も含めて笑われる」余地が残されている状態だ。
今回のM1グランプリで多く見られた共感型の漫才は、確かにこの優しさを体現していた。
観客は笑いながら、「これは自分の話でもある」と感じる。そこには連帯があり、温度がある。
ここまでは、文句のつけようがない。
ホワイト社会の怖さ
しかし、私の師匠のひとりである岡田斗司夫が語る「ホワイト社会」は、優しさとよく似た顔をしながら、まったく別の性質を持つ。
ホワイト社会とは、誰も傷つけないことが至上命題になりすぎた社会である。
暴力や差別だけでなく、「不快」「誤解される可能性」「炎上の芽」そのものが、過剰に排除されていく。
その結果、何が起こるか。
- 誰も殴らないが、誰も本音を言わない
- 誰も傷つけないが、誰も踏み込まない
- 表面は優しいが、ズレた人間は静かに排除される
これは、かつての乱暴な社会とは別の意味で、かなり怖い。
漫才から消えた「衝突」
ドツキ漫才が消えたこと自体は、時代の必然だろう。
だが問題は、ドツキだけでなく「衝突」そのものが消えかけている点にある。
衝突とは、必ずしも暴力ではない。
価値観のズレ、理解不能な他者、笑えない違和感。
それらを無理やり笑いに変換するのが、漫才の最も危険で、最も創造的な部分だった。
ホワイト社会では、この「危険な領域」そのものに立ち入ることが躊躇される。
安全で、清潔で、誰にも文句を言われない笑いだけが、評価されやすくなる。
「たくろう」の優勝をどう受け止めるか
だからこそ、今回の「たくろう」の優勝は、二重の意味を持つ。
一つは、
共感と観察だけで、ここまでの高みに到達できるという希望。
もう一つは、
このタイプの笑いしか、もう上に行けなくなっているのではないかという不安だ。
彼らが悪いわけでは、もちろんない。むしろ逆だ。
「この時代に最も適応した才能」が、正当に評価された結果なのだ。
だからこそ、これは祝福であると同時に、警告でもある。
優しさを守るために、何を失っているのか
優しい社会は守るべきだ。
だが、ホワイト社会に無自覚に移行すると、私たちは「不器用な表現」や「未整理の怒り」や「笑えない違和感」を、すべて切り捨ててしまう。
笑いが、
「正しい感情」
「正しい距離感」
「正しい態度」
だけで構成されるようになったとき、それは本当に豊かな文化と言えるのだろうか。
今回のM1グランプリは、とても穏やかに感じたのは間違いない。
しかし同時に、なにか整いすぎていたように感じる。
だから私は、この結果を祝福しながら、少しだけ立ち止まりたい。
この優しさは、どこまでが希望で、どこからが息苦しさなのか。
それを考え続けること自体が、たぶん、今の社会にとって必要な態度なのだと思う。
<山口 達也>


