いじめられていた記憶
私は今もデブですが、子供の頃はデブでいじめられていました。
あだ名は「デブメガネ」。
どのくらいデブかという話は今後のネタにおいておくとして、子供の頃いじめられていたという記憶って、その後の人生に大きく影響するんだろうなあと、元大阪市長で公共政策ラボの平松邦夫さんのインタビューで再認識しました。それもまたお話したいと思います。
いじめられていると、いじめる側が当たり前にしている考え方自体に嫌悪感を持つようになるのではないでしょうか。またいじめられる側の論理を擁護してくれる考え方自体に救われるのではないかと思います。
いじめる論理
いじめっ子たちのボスは、自衛隊の偉いさんの息子さんでした。
彼のお母さんは規律を重んじている息子さんが自慢でした。
ですが、私にとっては、彼の規律こそが、私をいじめるルールだったんです。
(阪神大震災で被災するまで自衛隊が嫌いだったのにはそういう理由でした)
ですから、そういったいじめる側の論理、規律っていうのが、とても身にしみてわかります。
といっても拙い子供の頃の体験ですが。
その中味については、未だに恐ろしくて文字化したくありませんが、重要なポイントは、
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- その人が大切にしているモノを壊す、尊厳を奪う(分断・破壊)
- プライドを粉々にして服従させる(服従)
- それをルール化して正当化し楽しむ(愉悦)
- それが正しいかのように威張る(権威)
- 刃向かわない者は手下にする(懐柔)
- 破壊しても服従もしないでルールや権威にたてつく者は徹底的にやる(いじめ)
ことだったのではないかと思います。いじめっ子のルールの中で生きていけるなら従ったと思います。怖いから。でも怖すぎて、そのルールの中ですら生きていけないので離脱したいという素振りをみせると、それがそのままいじめる対象そのものになるんですよね。
いじめられっ子の私としては、その後の人生において、こういう方法を使おうという人を見つけるととても嫌な気分になるようになりました。
いじめられた側の論理
私自身はとても弱い人間なので、
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- できるだけ係わる方々の素質を活かしたい(協調・尊重)
- できるだけルールは作らず係わりたい(自由)
- 常に自分自身が正しいことをやっているとは思わない(水平)
- 自分以外は全て師匠だと思いたい(協働)
- 尊重できる方々と自由にフラットに協働していきたい(人生の目標)
と願っています。願っていると書くのは、まだまだ全くできてないと思うからです。
UCOは、そんな個人的な体験がベースになっているのではないかと感じています。
(その2へ続く)