育てよう、学びたいという気持ちを湧き立たせる教育
今の大阪の教育。公がすべき教育の体を成していると多くの人が思っているのかどうか。
平松氏が自身の体験+「おせっかい教育論」から教師と児童、生徒との関係、本来教育が持っている醍醐味について考察します。
小学校時代のお話。
平松少年が小学生低学年の頃。ちょっとしたことで、顔が赤くなるのが恥ずかしくて、話すのをためらう、何も発表しない子どもだった。
どちらかというと、いちびりでもあり、受け狙い精神もありながら、すべったら恥ずかしいな、という思い。
小学校5年生の時、先生から放課後職員室に呼び出されて
「お前な、この問題わかるもん手ぇ挙げろ言うたとき、手ぇ挙げへんやろ。手ぇ挙げへんのなんでか知ってるで。顔赤なんのん恥ずかしいんやろ。」と大きな声で言われた。顔が真っ赤になってる自身がそこにある。そのあと続けて
「人間てな、思ってることを人に伝える、人が思ってることを聞く、その意思のやり取りからどんどん大きくなっていくもんんやで」というようなことを言われた。
それから、子ども心に、おもろいことも言いたいし、ということが芽生えてきて、どんどん面白くなっていく自分があった。
中学の時、国語の朗読時間 ものすごく褒められた話
朗読をした後、しーんとした教室の中で腕組みをして、先生が「きみな、なにか言葉を使う職業についたらええんちゃうか」と。
そのひとことで あっ、それやったらアナウンサーやろなって、という単純な思考でアナウンサーを目指した。
運よくアナウンサーになることができ、試験の時、「将来どんなアナウンサーになりたいですか」と聞かれたときに「ニュース」をやってみたいです、と答えた。
その後、入って5年目。1976年から始まったローカルワイドニュース「MBSナウ」のキャスターとして起用された。
あの小学校の時の先生の言葉がなかったら、アナウンサーになってなかったかもしれない。
教育は何がキッカケになるかわからない。
教師がいい面を見つけてくれること、その子のボタンのどこを押したら良くなるのか。
その子が人間として、大きくなっていくにつれて、社会でどういった役割を果たす人になるのか。そういった醍醐味が教育にはある、と平松氏は語ります。
試験が良くできる、あるいは統一テストでええ点取ってる、テストの点数によってすべてを選別してしまうような今の大阪の教育にそういった点がありますか。
最後に
「育てよう、学びたいという気持ちを湧き立たせるような先生が、活躍できる場がないという雰囲気になっていないでしょうか。
そんなことはない、という方がおられたら私にその例を教えていただきたいと思います。」と呼び掛けています。
教育からNEXT OSAKAをはじめる
冒頭に紹介されている「おせっかい教育論」は11年前の2010年9月に上梓された書籍。しかしここで語られている「これからの教育のあり方」や、その母体となる「共同体の再生」などについては、現在も大阪をはじめとして日本全体が抱え続け、広がり続けている課題でもあります。
資本主義社会が巨大化するにつれて、教育が「商品」として扱われるようになり、現在では公教育までもが行政サービス、公営事業のような扱いでみられるようになっているのが現実です。公教育にコストパフォーマンスを求めてはいないか。公教育にサービスの最大化を求めていやしないか。そして、顧客として教育というサービスを受けるのだ、ということを行政に求めるようになってはいないか。
公教育に市場原理を持ち込むことによって、お金の有無によって質の高い教育が受けられるかどうかが決まり、お金の有無によって教育格差が広がっていくことになっています。大阪が行なってきた塾のバウチャー制度や学校選択制は、保護者に対し公教育の優劣を、テスト成績や数値のみで判断させることを促進し、学校間格差を拡大することで、公教育そのものを崩壊させる道筋をつけたと言えます。
市民として、社会を構成する一員として教育にかかわっていくことこそ、次の時代の公教育を形作るのではないでしょうか。
子どもたちが持っている潜在的な素質や可能性。その子の持つ多面的な性格をくみ取り、良い面を見つけること。教師だけでなく、親や地域社会全体がそのように子どもたちを見つめ、育むような教育へと発展させていく先にこそ、次の時代の大阪を担う人づくりにつながると考えます。
教育については行政任せであったり、学校任せで良しとすることでは、子どもたちを社会で育てるという理想には届きません。
少子化の現在、実は行政にとって公教育を市民に委ねるチャンスであり、地域社会と協働を図ることで様々な負担軽減にもつながっていきます。
児童・生徒、教師、保護者、地域社会、すべてが学校や教育活動の関係者であり、教育活動の支援者であるという自覚、自負があっていいのではないかと思います。
ミュニシバリズム[municipalism]
地方自治体を意味する"municipality"を語源とした、自治体や地域コミュニティを中心として、地域に根付いた自治的な民主主義や合意形成を重視するという考え方や取り組みを指します。
現在、ヨーロッパの革新的な自治体や市民が取り組んでいる新しい政治、社会運動のあり方で、水道、電力、教育といった公共サービスの再公営化の動きや、持続可能な農と食の取り組み、市民の直接的な政治参加、市政の透明性といった政策に反映されつつあります。
バルセロナ(スペイン)、ナポリ(イタリア)、グルノーブル(フランス)などの事例がよく紹介されています。