「区」150年の歩み

本渡章の「古地図でたどる大阪の歴史」~「区」150年の歩み 第2回 その1 「江戸時代の大坂」と「明治以後の大阪」の架け橋になった巨大区

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「区」150年の歩み
本渡章さん
取材
UCO

UCOでは、NEXT OSAKAを妄想するベースとして、大阪市の辿ってきた道のりを再検証する企画を進めています。その一つが大阪市を形作ってきた歴史を、その土地の成り立ちと経済、文化など様々な要素を持った「区」から見つめ直そうという試みです。

こんにちは、本渡章です。前回は〈大阪の「区」150年の歩み〉を3つのポイントに沿ってお話しました。今回から大阪の24区それぞれのプロフィールをご紹介していきます。
前回をご覧いただいたうえで聞いていただくと、よりわかりやすいと思います。今回から聞き始めていただいても、理解いただけると思います。24区の話はつながっていますが、同時にひとつひとつが独立もしています。それがまた区というものの性格を物語っていますね。
24区のはじめにとりあげるのは西区です。なぜ、西区なのかというのは、前回をご覧になるとおわかりいただけると思います。改めて申し上げると、西区からおおさかの明治以後の新しい時代が始まった、と言えます。
明治12年(1879)に生まれた最初の4つの区、東区・西区・南区・北区の中で、西区はその後の大阪の成長を先取りする形で生まれました。明治以後の大阪はまず西を向いて走り出した。24区紹介の第一歩も西区から踏み出したいと思います。

さて、いきなりですが、結論から言うと、西区は「江戸時代の大坂」と「明治以後の新しい大阪」の架け橋になった区です。
明治12年(1879)に生まれた時点の西区は、江戸時代の大坂三郷にあたる旧市街と、現在の此花区・港区・大正区・浪速区エリアにまたがる非常に大きなエリアでした。
これが江戸時代以来の大阪の新しいエネルギーが西に注がれるパイプラインの役割を果たし、その過程で人口増大したエリアが港区・大正区・浪速区として分区、独立していったわけです。

1920年の西区全域

1920年の西区全域

そんな西区を象徴する史跡を次に挙げます。
【1】江之子島大阪府庁跡・大阪市役所江之子島庁舎跡
【2】川口居留地跡

いずれも明治の大阪を語るのに欠かせない史跡です。
江戸時代の大坂は城下町で、城のまわりは奉行所や武家屋敷群があり、大商人が繁栄を競った北船場とは東横堀川を隔てて隣接していました。

大阪の府と市を代表する役所です。それと、外国人が住む居留地というのができた。これは2つの側面を物語っていると思います。
江戸時代の大坂というのは城下町で、城のまわりは、奉行所や武家屋敷というものが固まっていて、川を隔てて向こう側が船場という商人が活躍する商業地がありました。そういう大阪の中心地です。

明治維新後しばらくは大阪城周辺があいかわらず街の中心で、区で言えば城のある東区エリアで歴史に刻まれる出来事が続きました。例えば、初代府庁は西町奉行所跡、区で言えば東区で現在の中央区、マイドームおおさかがある場所に置かれたのです。
それが、ある時西へ移動するわけです。中心が西へ動いたのは、東区・西区・南区・北区の4区が誕生した明治12年(1879)です。中心が動いたというのは、城主や奉行がいなくなった大阪に明治7年(1874)煉瓦造りの大阪府庁が西区の江之子島に建ち、新時代の到来を告げました。その本格的な最初の庁舎が生まれたのが西区であった。これが2代目となる江之子島府庁舎で、現在の府庁舎が大正15年(1926)大手前に完成するまでおよそ半世紀にわたって、大阪の顔として存在感を示したのです。

大阪府庁 江之子島大阪府庁 大正後半

大阪府庁 江之子島大阪府庁 大正後半

江之子島というのは、木津川の上流、安治川との分岐点にあります。もともと河口の島洲で、明治の初めは、目の前に湾岸の新田地帯が広がる街はずれです。どうしてそんな場所に府庁舎ができたんだろう、と思いますが、明治の地図aをご覧ください。川を挟んで江之子島の西側に居留地があります。明治維新で日本が開国したのにともない、大阪は開市・開港しました。国の政策として街を開き、港を開くということが行われました。
大阪では港といえば、江戸時代以来の川口、安治川、木津川の上流である中之島の西の端と、向かい合っているこの川口という地帯です。
外国との貿易がはじまり、外国人が住む居留地が、当時の港があった川口に誕生します。そこを拠点に目の前に港があって、貿易を行うという場所になりました。
大阪府庁は、その川口居留地と川を挟んだ向かい側にあります。
西欧文明導入による近代化を急務とした明治の新政府が、居留地の目と鼻の先の江之子島に大阪府庁を定めたのは、江戸時代以来の商都・大阪の開市・開港をいかに重視したかのあらわれです。それまで大阪城のそばにあった大阪府の役所が、居留地の真向かいの川べりに引っ越してきたんです。西へ大移動したわけです。それが西区というもののその後の歴史を物語っていると思います。

川口は、今でも西区の町名に残る地名です。川口には江戸時代以来の船の港があって、大阪湾から木津川、安治川をさかのぼってきた船が着岸し、積んできた各地の物産を小舟に下ろす港であり、小舟が物産を市中に行き渡らせる堀川網の入り口にあたる場所。川口という地名には、水都の玄関口の意味も込められています。縦横に発達していた堀川(人工の河川)、そこへ物資を流通させる拠点だった。市内の川の入り口、と思っていただいたら結構です。江戸時代には、船の出入りを管理する船手会所(ふなてかいしょ)という役所が置かれた場所でもありました。

その川口に居留地が造成され、最初、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、オランダの各国に土地を売却して招き入れました。海外からの人と物の入り口になりました。
そこから西洋の文化、いろいろなものが入ってきたわけです。

川口居留地 「大阪と博覧会」(明治三十五刊)より

川口居留地 「大阪と博覧会」(明治三十五刊)より

いまではもう当たり前になっているパン食とか、コーヒーといった食文化、散髪するとか、クリーニング店に着替えの服を出すとか、そういう習慣や、カフェなど、そういう文化も居留地を通して交流があって、そこから日常の暮らしに溶け込んでいったわけです。

川口居留地に当初入って来たのは貿易の成果に期待した各国の商人でした。大阪側も当然そういうことに期待して、ここから本格的な取引が始まるんだと思っていました。
しかし、江戸時代からの港なので、水深が浅い川口の港に黒船のような外国の大型船が入りにくいという大問題がわかると、数年の間に当時の商人たちは見切りをつけることになります。入れ替わりに入って来たのがキリスト教や学校教育関係の外国人の方たちです。
いま現在残っている川口キリスト教会とか、学校はじめ、現在、市内にあるキリスト教会、ミッション系の学校は、当時のキリスト教関係者がはじめたものが多いです。
単に生活文化だけではなくて、そういう意味での外国の文化も居留地から入ってきて、交流が生まれていったということです。

人々の意識は変わっていったでしょう。街の暮らしも変わっていったでしょう。そういう波が押し寄せてきた入り口がこの西区であり、その代表的なエリアが川口であると。

大阪が近代的な港湾都市になるには、後の大阪港誕生を待たなければなりませんでしたが、川口居留地は西洋文化の発信拠点になり、煉瓦造りの江之子島大阪府庁は文明開化のシンボルとなって、人々の意識を変え、街の暮らしや産業に明治の新風を吹き込んでいったのです。


「古地図でたどる大阪24区の履歴書」
著者:本渡章、出版:140B、定価2,200円+税

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本渡章 Hondo Akira
1952年生まれ。作家。
古地図昔案内シリーズなど著書多数。
講演、まち歩きツアー、古地図サロンなどの活動も行っている。


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