「メディアっていうのは誰のためにあるんやろ」
ミュニシバリズムと大阪の第2回。平松邦夫氏がUCOのはじまりを振り返り、私たちはどういう社会を望むのかということを淡々と語られる中で、ご自身が放送人としてどういうメディアを目指していたかということを語られています。
「メディアっていうのは誰のためにあるんやろ、多くの人が幸せにそして無事に平穏に暮らせるような世の中を目指すもんやと思ってやらせていただいたという風に思ってます。」
この言葉からだけでは、詳細は推察するしかないけれど、実際、マスコミの記者や放送局の報道記者にも、放送人、報道人、あるいはジャーナリストとしての志を持っておられる方はおられると思います。しかし、第二次世界大戦前の大政翼賛会報道を経て、戦後、その反省に立った行政監視、あるいは反権力を顕わにした右派、左派さまざまな報道があふれた50年代、60年代。オイルショックを過ぎ80年代に入ったあたりから世界は市場原理主義へと進み始め、グローバリズムが席巻するあたりから報道、特にマスメディアによる報道は大きく舵を切ったように思います。メディア間の競争原理から、受ける報道、注目を浴びればいいという姿勢、ニュースのバラエティ化などと揶揄されながらも、「わかりやすい情報提供」という名のもとに、その舌鋒はまろやかになり、牙や爪は影を潜めていったと思います。
要はマスメディアの大半は、大企業であり、インターネットの時代においてはグローバリズムの波のただなかにいます。テレビでは視聴率という競争の中でスポンサー獲得に邁進するわけで、そこにカネにまかれる体質が潜在的に存在しているのが実情と言えます。
それが如実に表れているのが、在阪メディアです。
コロナ以前から指摘されていたことですが、知事や市長をはじめ、おおさか維新の会が大半を占める大阪府議会、大阪市議会による議会運営や、議員による不祥事、はたまた市長、知事の発言など、これらに対する批判精神が皆無となっています。その最たるものが前回掲載した「大阪市立小中オンライン授業のゴタゴタ。」で紹介した、松井市長による思いつき発言を何ら裏付けも取らずに多くの在阪メディアが放送、配信したことに表れています。
コロナ禍以降、吉村知事のテレビ出演数が異常に多いことは昨年来幾度も指摘されていることです。最近掲載され、コロナ対策の実際と比較して批評されているのが、5月11日、12日に論座で掲載された、木村涼子氏(大阪大学大学院人間科学研究科教授)による「吉村大阪府知事の高評価とポストトゥルース時代」です。
ここで木村涼子氏は、2020年1月~2021年4月の間、吉村知事のテレビ出演回数を知事の日程から算出し、大阪のコロナ対策、感染者数などのデータと比較。全国で最悪の感染拡大と医療崩壊の現実に直面していても、テレビに出演することによって、大阪府民の多くから信頼されているだけでなく、全国的にも吉村知事のイメージは高い評価を得ている、としています。その数、148回(うち在阪局76回)。
特に、吉村知事の出演する番組の多くがバラエティ番組であることは、テレビ局が視聴率を競っていることと関連しています。コロナ禍において、情報を求める中、知事が出演することで視聴率が増えることが予測しやすい。まして、コロナ以前であっても吉村人気にあやかろうと、各局とも知事を出演させてきた傾向にありました。このように知事の露出が増えることによって、またその時の発言だけで多くの人は何か頑張っている感を感じ、「仕事してはるやん」といった共感を集めることを可能にしています。また、テレビだけでなく新聞においても同様の効果があることも指摘されています。吉村知事が「○○をします」といった発言をするたびに、発言の事実だけを伝えることで、意図はなくてもその数量によって「結果として吉村知事への高評価を支えている。」と批評。ここでも、知事発言をそのまま、批評・批判を加えることなく伝えることで、知事人気を補強しているとも言えます。
4月以降、大阪ではコロナでお亡くなりになる方が2桁を下回ることがない。共同通信によれば、「5月のコロナ死者859人 累計2千人超、全国最多」となっています。5月の死者数は月別で過去最多の859人、累計2,315人と全国で最も多い。吉村知事は頻繁にテレビ出演するが、これらお亡くなりになった方への思いを語ることは一切ない。コロナ対策が全国一劣っているという、行政の長としての自覚と責任を感ずることがないのだろう。
昨年の松井市長の雨ガッパ発言のその後の消防法違反指摘の顛末、吉村知事のイソジン「嘘のようなホント」のインサイダー疑惑会見、今年3月に緊急事態宣言の解除を求めたときに重症病床の約3割減を強行したことなど、感染対策では完全に失策しているにもかかわらず、メディア露出することでそれが覆い隠されているだけでなく、在阪メディアも共同正犯となっていることを指摘しておきます。
報道、あるいはジャーナリズムを語るとき、また放送局の立場を表すとき、「報道の中立性」がよく言われます。公平中立とか、両論併記だとか、どうして批評性や批判精神が求められるジャーナリズム報道が中立でなければならないのか。また、どこの世界に中立な報道機関やメディアが存在するというのでしょうか。ここ数年の在阪メディアを見る限り、当然中立であるとは言い難く、またある意味、公正性も欠いているのではないかとさえ思えます。
「大阪のまちが持ってる力」
さて、大阪においてメディアが行政監視の役割を果たせていない現状に対して、市民目線で大阪の行政や、大阪のビジョンを語ることはできないか、というのがユーシーオオサカのはじまりです。
江戸時代の大阪は、行政が全域にわたって統治できるほど人員も予算もなかったため、道路整備や川や用水路への架橋、住民管理も町民、商人が担わざるを得ない事情もあったため、民でできることは民が行うという状況だったのだと思います。そうした流れから、お上に従うだけではない独立精神や、戦国時代から続く堺を中心とする商業都市としての独立性など、戦前、戦後に連なる大阪の精神的DNAは連綿として続いており、現在もそのDNAは健在であると思います。平松氏の言うところの「大阪の雰囲気や力」とは違うかもしれませんが、「お上がやらんのやったらうちらでするわ」というような気分は、くすぶりながらも息づいているように思います。
いま、世界では市民による行政への関与や、市民ができることを持ち寄って行う組合のようなコミュニティが新しい社会、新しい都市像を作っています。
市内の薬局のマスク在庫をスマートフォンアプリで表示し、公平にマスクが行き渡るようにした台湾のマスクマップ。このニュースを語るとき、デジタル担当閣僚のオードリー・タン氏の手腕がクローズアップされますが、実際にはこのアプリの企画、開発は市民によるものです。マスクを求めて薬局に行列する人々の行動を見て、g0v(ガブゼロ)という市民コミュニティに所属する一人のプログラマーがマスク在庫がわかるアプリを企画。当初、各店舗のマスクの在庫状況が正確につかめないため、ネットでの情報を頼りに「完売」、「残りわずか」、「十分ある」というあいまいなままで見切り発車しようとしていたといいます。そのg0vの動きを見て、g0vの出身でもあるオードリー・タン氏が働きかけ、販売データを公開。アプリ開発に利用することができたというものです。このことをきっかけに、行政当局が公開できる情報はできる限り公開する方針を示しています。
このような動きは台湾のみならず、ヨーロッパをはじめとする多くの先進国でも同様の動きが報告されています。
現在では行政の組織も、また業務や課題も複雑で多岐にわたってきており、従来の行政組織だけですべてを取り決めたり、運営することが難しくなっています。世界的には、このように市民が行政に関与し、さまざまな行政の課題解決に市民が参加する仕組みができつつあります。
「正か邪か、正しいか間違ってるか、という社会」
考えの違いを一つの結果に導いていく努力をせず、お互いを排除してしまう社会を望んでいるのか。それとも本来の民主主義である、さまざまな視点や少数派の意見をすくい上げ、公平性、公正性を反映させ、議論を積み上げ、合意形成を図る社会を目指すのか。
「決められない政治」と間接民主制の議会を揶揄し、「決められる政治」という一方的、単純多数決による独裁制を望んだ人たちが現れた。複雑になった社会生活、それとともに課題も複雑となった行政問題に対して、「1か0か」、「正か不か」といった二項対立を掲げ、社会を分断することは、何の課題解決にもならないばかりか、地域コミュニティ、社会的コミュニティを破壊し、権力者の都合のよい統治を行なう素地を作ることとなります。現在の大阪はまさしくこの状態であると言えます。
市民生活の多くは、行政と切り離せないものです。行政の行なっている事業や事案の多くは、本来市民の声が反映される仕組みでなければなりません。いま、市民の多くが「政治」には関わらないという態度をとることがあり、また何か社会活動のすべてが政治活動かのようにとらえる人がいます。しかし、水道、教育、環境、医療、介護、防災、都市交通などの問題は、市民にとって深くかかわる行政問題です。これらを「政治問題」であり市民が関与することではないかのように言う人もいますが、とんでもない誤解です。
こうした行政の事業や課題に対して声を上げたいがどうしたらいいかわからない、という方もおられるでしょう。地域で抱える課題を議員に訴えたが何も変わらない、ということもあるでしょう。
声にならない地域の課題や住民自治の課題、新たなまちづくりの動きを伝える。また、地域の情報や課題をアピールしたり、いろいろな人やグループを紹介する環境づくりを行う。市民が新たな大阪の未来を描くアピールの場をつくる。市民ができることは市民に任せるような大阪をつくっていく。ユーシーオオサカは、大阪らしいミュニシバリズムを実現することを目指します。
ミュニシパリズム[municipalism]
地方自治体を意味する"municipality"を語源とした、自治体や地域コミュニティを中心として、地域に根付いた自治的な民主主義や合意形成を重視するという考え方や取り組みを指します。
現在、ヨーロッパの革新的な自治体や市民が取り組んでいる新しい政治、社会運動のあり方で、水道、電力、教育といった公共サービスの再公営化の動きや、持続可能な農と食の取り組み、市民の直接的な政治参加、市政の透明性といった政策に反映されつつあります。
バルセロナ(スペイン)、ナポリ(イタリア)、グルノーブル(フランス)などの事例がよく紹介されています。
記事内で紹介した関連情報サイト
論座
吉村大阪府知事の高評価とポストトゥルース時代(上)~感染悪化とテレビ
吉村大阪府知事の高評価とポストトゥルース時代(下)~ファクトより情緒
「Hack Democracy」を掲げるg0vサイト
政府を表すドメインgovとデジタルの0,1を表す0を組み合わせからなり、「政府の役割をゼロから再考する」というコミュニティの取り組みを象徴している。